美しい着地点
多少の力技も含め大筋では予想通りの美しい着地点に、個人的には難渋していたピースを見事に埋めて下さった最終話だった。橘未来の前に神話や民話でお馴染みの有徴の男が再来するという展開は森下佳子脚本ならではのものだろう。さすがである。
病床で眠りながら涙をこぼす咲。仁がいなくなって泣いていたと言う咲を抱きしめる仁。「医者がそのようなことを言ってどうするのですか」と嬉しそうなやつれた顔でおずおずと背中に手を回す咲。それもつかのま薬品の存在を思い出す仁に回した手を下ろす咲。「すぐ戻ってきます」と言って出て行くときの仁と咲との手が離れていく時の2度のスローカット。仁の後姿を見送ったあと触れ合った手を見つめる咲。
見ているこちらの意識と感情の流れと音楽と画面の描写が完全に融けあい、ああ、この二人は今後もう江戸で再会することはないのだなと視聴者に悟らせるまさに一瞬が永遠であるような珠玉の名シーンである。本人たちは決して今生の別れだとは思っていないだけに見ているこちら側の胸が一層しめつけられる。行ってきますと言った相手に明日もまた同じように行ってきますと言えると思っているのだ、人間というこの馬鹿は。
このドラマで伝わってくることなどごくごく”当たり前”のことで『百夜行』の桐原亮二なら「そんなこと教えられなくてもわかってるんです」と冷めた台詞で応えるものばかりだろう。しかしながら人間はなかなかどうして頭でわかっているようには現実では生きられない。この一瞬一瞬がどれだけかけがえのない時であるのか、生きていれば繰り返し思い知らされるのにだ。だから仁先生のような”灯火”が時折現れて自分の姿を照らしてくれるとはっと我にかえる。
一方で光あるところ必ず影ができることも誰もが知っている。「暴力は暴力しか生まない」という光が照らし出すものは「力のないものはねじ伏せられる」という影だ。しかしゲド流に言うなら「影をコントロールしろ」ってことだろう。また西郷の「(人というのは)ねじ伏せられんかったこつをありがたがるようにはできておりもはん」という人間の真実を抉る台詞も忘れがたい。森下佳子の異形の才能にほとほと感心する。
でも、”当たり前”のことだらけなのにこのドラマが大好きだったのは、たまらなく美しかったからだ。このドラマの製作者すべて・俳優の皆さんの一貫した「美意識」を私は全面的に支持する。
A/男性 (40) 2011.6.28 (Tue) 21:10