帰ってきた!お江戸マメ知識

まるで本当に見てきたかのように「江戸のアレコレ」を語ってくれる、時代考証の山田順子先生による人気コーナーが復活!毎週気になるシーンについて解説していただきます。

第11回

西郷「徳川の者が上野に集まり、『彰義隊』ち名乗っておられるようじゃっどん」

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1868年(慶応4年)正月に、鳥羽伏見の戦いで幕府軍の形勢を不利とみた十五代将軍の徳川慶喜は、戦い半ばにして大坂から船で江戸に帰ってしまったの。そのため、幕府軍の士気はさらに落ちて、本当に完敗してしまったのね。その後、新政府軍は、朝敵となった徳川慶喜を追討するために、江戸に向かって進軍を開始するんだけど、それに対して慶喜は、2月に自ら上野・寛永寺に入って降伏を意味する謹慎を始めたの。そこで新政府軍との交渉役になった勝安房守(海舟)と西郷隆盛の会談が行われ、江戸城の無血開城が決まったという流れ。ここはドラマでも感動的なシーンだったわねぇ。
さて、問題は、上層部はそれで納得しても、幕府の直参旗本や御家人としてプライドを持って生きてきた人たち。特に、血気盛んな若者たちは、戦わずして新政府軍に江戸城を引き渡したことは許せなかったのね。それで、“慶喜を守る”という名目で「彰義隊」を名乗り、慶喜が謹慎していた上野・寛永寺に集結したの。だけど、肝心の慶喜はというと…このままでは戦いになると危惧して、密かに水戸へ脱出してしまってね。でも、名目を失ってしまっても、意気軒昂な彰義隊は解散しなかったのよ。そこで、勝安房守は、当時江戸の治安対策の責任者だったことを利用して、彰義隊を“市中取締りの集団”だと言い逃れをしたわけ。でも、新政府軍にとっては、危険な存在だということにかわりはないでしょう?それで、旧暦の5月15日に、上野に立て籠もる彰義隊に対して総攻撃をしかけたの。西洋式武器を装備して規律の整った政府軍と、リーダーらしいリーダーもいない彰義隊が戦ったら…その結果は明白よね。
ちなみに、新政府軍がなぜ5月15日に総攻撃をしたかというと、これが新暦の7月4日にあたる、まさに梅雨の最中だったから!兵士にとってはぬかるんで戦い難いんだけれど、もし戦火が広がった場合、梅雨で建物が湿っていれば、「延焼の恐れが少ないだろう」という長州の参謀・大村益次郎の提案だったそうよ。それでも、江戸で一番の伽藍(がらん)を誇った寛永寺の殆どを焼き尽くしたのだから、その戦いの凄さが偲ばれるわよね。

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彰義隊士の声「おーい!きんぎれ取ったぞ!」
仁・辰五郎「!」

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鳥羽伏見の戦いで、徳川慶喜が不利を自覚したのは、新政府軍の本陣に「錦御旗(にしきのみはた)」が掲げられたと聞いたからだといわれているんだけれど、錦御旗とは“天皇の軍隊”だということを表わす軍旗のことで、錦織に日や月、そして菊の紋章を刺繍したもの。最初に使われたのは、鎌倉時代だといわれているんだけれど、戦いの勝敗に大きく作用する使われ方をしたのは、この鳥羽伏見から始まる戊辰戦争のときだけなの。でも、慶喜だけでなく、幕府側についた諸藩の兵士も錦の御旗を見ると退却したというぐらいだから、かなりインパクトのある旗だったんじゃないかしら。「きんぎれ(錦切れ)」というのは、その錦の御旗と同じような錦の小布のことで、新政府軍の兵士が肩章として着けていたもの。現代の軍服の肩章は、階級や所属を表すものになって、かなりコンパクトになっているけれど…江戸時代以前は“お揃いの軍装に統一する”というのが難しかったことから、敵・味方を見分ける方法として、肩に印の入った小布を付けて戦うということがあったのね。その小布を錦の御旗と同じような布で作り、天皇の兵隊という印にしたってわけなのよ。

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<山田先生よりメッセージ>

(写真)

前作に続き、今回もまた大勢の方に応援していただき、ありがとうございました。ロケ先などで、「『マメ知識』見ていますよ」なんて声をかけられることも度々あり、とてもうれしくて励みになりました。少しでもドラマを見てくださる皆様の手助けになっていれば幸いです。
今回のシリーズでは、血筋の存続や、父から息子への伝承、野風の子供の将来、龍馬がやった日本の国づくりなど、過去から現代に続くテーマが多く含まれていたため、ご自分の祖先について改めて考えられ た方が多かったようですね。
実は私も、今回の遠方ロケの最終日に行った茨城県のお寺で、自分の母方の祖先の足跡を発見してびっくりしました。600年前、その寺を建立した人物が自分と同じ血筋を受け継ぐ親戚だったのです。遠いと言ってしまえば、それまでですが、600年の時を隔てても、通じる何かを感じてしまいました。

最後に、このドラマをきっかけに歴史に興味を持ったという皆さん、ぜひ、もっと歴史を好きになってください。歴史は単に過去の話ではなく、現代の皆様に続く一歩です。
私もこれからさらに時代考証家として歴史と向き合っていきたいと思います。
長い間、お読みいただき、ありがとうございました。

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山田先生への質問は締め切りました。たくさんのご応募をいただき、ありがとうございました!