帰ってきた!お江戸マメ知識

まるで本当に見てきたかのように「江戸のアレコレ」を語ってくれる、時代考証の山田順子先生による人気コーナーが復活!毎週気になるシーンについて解説していただきます。

第3回

平囚として座っている仁、その顔には疲労の色が見える。

(写真)

『小伝馬町牢屋敷』とは、江戸時代に実在した牢屋のことね。仁先生のように、江戸で罪を犯した疑いのかかった人(まだ判決の下っていない人)は、取調べの間、とりあえずここに入れられるの。そこへ、町奉行所から『吟味与力』と呼ばれる役職の人が出張してきて、牢問から拷問の執行にいたるまでを行うんだけど、奉行所サイドが大まかな事件の真相を把握できたところで、囚人は町奉行所に呼び出しを受けるの。そして、『お奉行様』から判決を言い渡されるっていう流れね。
牢屋敷の中には、“3段階の身分制度”があって、まず仁先生が入れられているのが『大牢』と呼ばれる「庶民向け」の牢。その上に、『揚がり屋』といってお医者さんとか学者とか…庶民の中でもちょっと身分のある人や、大名の家来の中でも下級な人たちが入る牢があるの。そして、もうひとつが、咲さんの入っている『揚がり座敷』という牢。ここは“お目見え以上(将軍の前にいって挨拶をしたり顔を見ることができる人のこと)”の入るところで、唯一「個室」のつくりになっているの。咲ちゃんは家を飛び出したとはいえ、旗本の娘さんだからここに収監されているという設定ね。
そして、仁先生も牢内で要求されていた“ツル”というのは、簡単にいってしまえば「賄賂」のこと。“ツル”の意味は、「金蔓(かねヅル)」からきていて、持ってこないとどうなるのかというと…牢内でひどいイジメに遭ったり、へたすりゃ作造り(間引きすること=殺人を行うこと)されちゃうわけ。それだから、囚人たちはみな着物の襟なんかにしっかりとお金を縫いこんできて、それを牢名主に差し出すことによって「自分を特別扱いしてください」と懇願するのよ。入牢の際、役人も囚人たちの身体検査をするくせに、ツルだけは黙って見逃すの。それはなぜかというと・・・牢名主たちが囚人から取り上げたツルの15〜20%は、役人たちの袖の下に入るシステムが、暗に横行しているから!役人にとっても囚人たちがツルをたくさん持ち込んでくれればくれるほど、自分たちも儲かるから大歓迎なのよ。
ちなみに、野風が仁を助けるためにドーンと差し入れ(干魚と金)を行った際、それぞれの皿に載っていたお金の価値についてだけど・・・あの貨幣は「1分金」といって、一両(幕末レートで約5万円)の1/4の価値があるものなの。それがひとりにつき2枚ずつ配分されていたってことは…野風がかなりの金額を仁先生のために使ったことがわかるわよね。彼女のことだから、きっと仁先生と同じ牢にいた人だけでなく、牢屋敷にいるすべての人に金をバラまいて脅しをかけただろうと推測されるから、穴の隠居のセリフにもあったとおり、だいたい100両(一両を5万円と換算すると、約500万円)ぐらいは使ったんじゃないかしら。

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奉行所で沙汰を聞く咲。「(唖然と)…」

(写真)

江戸幕府が「重要な役職をすべて“複数体制”にしていた」というのはご存知かしら?『老中』もそう、『町奉行』もそう。『勘定奉行』だってそう!『軍艦奉行』だってなにも勝先生だけじゃなくて、同時期に何人も存在していたの。これはなぜかというと…“誰かひとりだけ”に権限を持たせてしまうと、どうしても「不正」や「もみ消し」が起こったり、独走してしまいがちでしょう?これが、江戸幕府の長く続いた一因とも言われているんだけれど、当時は『奉行所』というものも江戸に2つ存在していたの(ほんの一時期、3つであったことも)。そうすることで、不正や不行き届きを防ぐようなシステムになっていたのね。
そもそも『奉行所』とは、今でいう『警察』と『裁判所』と『都庁』の役割を持った公的機関のことで、実際にはもっと広い範囲の行政も担当していたようだけど、そこのトップが『町奉行(すなわち「お奉行様」)』よ。特に時代劇なんかを見ていると、「北町奉行所」「南町奉行所」なんていう言葉をよく耳にするけれど、実は正式には「北」や「南」なんて言い方はしないの。たまたま位置関係が、片方は北側(八重洲→東京駅八重洲口北側あたり)に、もう片方が南側(数寄屋橋→現在「有楽町マリオン」が建っているあたり)に存在していたから、こういった俗称がついただけ。両方とも『町奉行所』というのが正式な名称で、この2ヶ所が“月番制”によって「“ひと月ごとに交互に”業務を行っていた」の。だから、片方の門が開いているときは、もう片方は閉まっていて、月番でない奉行所は“月番のときに受理して未処理となっている訴訟の処理や調査”を行ったりしていたのね。だから、ある意味じゃ庶民は、幕府から「逃げ場」を用意されていたともいえるわ。だって、“今月担当のお奉行様は、お調べが結構キビしい”という場合は、来月になってもう片方の“お調べのユルいお奉行様”のほうへ事件を持ち込めばいいんだから(笑)。
ちょっと余談になるけれど…『町奉行』と聞いて、あの“遠山の金さん”を思い浮かべた人もいるんじゃないかしら!?作品をご存じの方ならわかると思うんだけど、彼が北町奉行で活躍していた際、南町奉行に鳥居耀蔵というライバルがいたでしょう?鳥居さんはなにかと厳しい人で知られていたから、当時の庶民は歌舞伎なんかにも理解のある金さんを「正義の味方だ」といって慕ったわけ。
そうして公正を保つために、あるいは仕事量を調節するために2つ設けられた『奉行所』は、交代で多くの懸案を解決していったわけだけれど…双方が努力しても解決しない場合には、 また別に“最高裁”的なポジションの機関・『評定所(ひょうじょうしょ)』というものもあって、そこに持ち込まれて協議の末、判決が下されていたのよ。

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「らしゃめんだ〜!」
振り返ると、馬に乗った異人と、そして、洋装の野風がやってくる

(写真)

らしゃめん(羅紗緬)とは、外国人の奥さんや妾などを総称して“外国人(所有)の女”という意味で使われる俗語ね。これは、洋装に身を包んだ野風のことを指して、誰かがこう叫んだのだけど…この作品の時代設定として、「開国してから10年以上が経過している」ので、この頃になると単身赴任で商売にやってきていた外国人たちも、徐々に家族連れで日本を訪れるようになっていたと思われるの。ルロンの住んでいた横浜・山手町あたりの居留地にも、当時だいたい100人ぐらいの外国人が住んでいたんじゃないかしら。そして、そのうちの一割程度が女性だったようね。
彼らの中には、私たちが「パリへ観光に行ってみたい!」と思うように、「日本へ来たからには“江戸見物”をしたい」という人も多くいて、幕府もそれを容認していたの。ただし、外国人が居留地を出るには許可が必要だし、護衛の役人が付き添うことが必須条件!でも、これには他にも理由があって、幕府や奉行所の役人が付き添うことで「江戸見物のルートを指定するため」でもあったらしいわ。ちなみに、「幕府の威光を見せよう」という思惑からか、この“江戸見物ツアー”のルートには、江戸城を眺めることのできる絶好のポイントなんかも含まれていたみたい。そうしてときどき江戸に外国の観光客が入ってくるようになっていたので、人々もそう驚くことはなくなっていたようだけど、それでもまだ外国人女性の観光客というのは珍しいものであったに違いないわ。とはいっても、実際は「外国人女性」ではなくて、馬に乗って悠然とやってきたのは、日本人の野風だったわけだけど…(笑)。

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山田先生への質問は締め切りました。たくさんのご応募をいただき、ありがとうございました!