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寺田的コラム

ゴールデングランプリ陸上&新国立競技場の主役たち⑥ 戸邊直人

2020.08.17 / TEXT by 寺田辰朗

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写真提供:フォート・キシモト

旧国立競技場最後の大会で2m31を跳んだ戸邊が新国立競技場最初の大会で2m33に挑戦

戸邊直人(JAL)は8月23日に新国立競技場で開催されるセイコーゴールデングランプリ陸上2020東京(GGP)男子走高跳で、日本人国内最高記録の「2m33」を目標としている。

戸邊は昨年2月に2m35の日本新を、ドイツの室内競技会で跳んだ。そのときのヨーロッパ遠征で2m34と2m33も記録し、ワールド・インドア・ツアーに日本人初の総合優勝を飾った。だが昨年の世界陸上ドーハは予選落ちするなど、選手権形式の国際試合では結果を残していない。

戸邊は世界大会のメダル獲得には2m40を跳ぶ力が必要と考え、昨年4月以降は日本記録のときより遠い位置から踏み切ることで記録アップに挑んでいる。そのための新しい技術を今年3月に導入し、GGPがその最初の試合になる。

●昨年の日本記録直後から踏み切り位置を遠くする試み
 
2m35を跳んだ昨年2月の遠征から帰国するとすぐ、戸邊は2m40を跳ぶにはバーから近すぎると判断し、遠くから踏み切る跳躍に取り組み始めた。だが踏み切り位置の変更は多くの困難を伴う。助走速度も速くするためバーへの近づき方や、踏み切り後のバーの位置の感じ方が変わる。いくつかの動作のタイミングを変えなければいけなくなるのだ。

すぐに調整して世界陸上に間に合わせるつもりだったが、変更に長期間を要することも覚悟していた。すべては東京五輪でメダルに挑戦するためである。

 結果的に昨シーズンは、踏み切り位置を十分に遠くすることができなかった。
「30cm遠くにしようと考えていましたが、10〜20cmしかできませんでした」

 世界陸上の不調は8月のヨーロッパ遠征中のケガの影響もあったが、新しい跳躍が中途半端な完成度だったことも一因だった。

 今年は2月にエストニアの室内競技会で2m31と、1年ぶりに大台をクリア。踏み切り位置は昨シーズンの屋外と変わっていなかったが、「19年シーズン後に取り組んだ体力トレーニングの成果」が表れたことはプラス材料だった。

●踏み切り1歩前を踵接地にした狙いは?

 東京五輪が今年開催であれば、間に合わなかった可能性があるのではないか。そこを質問すると、「3月に劇的な変化があったんです」という戸邊の答え。いつものように冷静に語ったが、少しだけ言葉が弾んでいた。

 帰国後に踏み切り1歩前の接地の仕方を変更したことで、遠くから踏み切ることに成功しているという。
「1歩前をつま先からではなく、つま先を上げて踵から転がすような接地にしてみました。そうすることで2歩前から1歩前への重心の浮き上がりを抑えられ、最後の1歩へ重心を落としながら入るのでなく、平行移動しながら入ることができます。それができれば踏み切り後の体の起こし回転を出しやすくなる」

 この新技術は、エストニアから帰国する自社の飛行機の中で思いついたことの1つだった。
「機内では3つ、可能性を考えつきました。1つはバーに向かう助走のカーブを頑張って走ることで浮きを抑える。2つめは1歩前までの助走の意識の仕方で、3つめが踵からの接地です。帰国後最初の跳躍練習で可能性が高いと思った1つめから順に、何回も跳んで試したのですがしっくりこず、優先順位が最も低かった踵からの接地をやってみたら、1回目から思いのほか上手く踏み切りができました。これかー、と思いましたね。起こし回転が上への速度と同時に前方への速度も生じるので、遠くから踏み切る今の技術的な課題にマッチする動きになります」

 接地の仕方の変更は、我々素人は大きな変更と考えてしまうが、戸邊にとっては“よく行っている変更”の1つだった。そこが戸邊の特徴である。

 ところが新しい技術を固めるための跳躍練習が、新型コロナ感染拡大防止のためできなくなった。走ることは公園などで行ったが、競技場でバーやマットを使用することができず、跳躍練習が約3カ月間できなかった。

 だが結果的に、そのブランクもプラスに変えられたという。
「久しぶりにバーを跳んだとき、良い意味でも悪い意味でも以前のクセを忘れられた部分がありました。なかなか遠くできなかった踏み切りが、自然と遠くからできるようになっていましたね」
 7月に入って週に2回くらいの頻度で跳躍練習ができるようになり、7月末には5歩助走(試合では6歩助走)で2m20をクリアすることができた。「試合ではプラス10cmを跳ぶことができます」と、2m30以上に手応えを感じている。

●新旧国立競技場の日本人最高記録を

 戸邊にとってGGPは記念碑的な大会と言っていい。
 GGPは2011年に、以前のスーパー陸上からグレードアップする形で始まったが、13年まで男子走高跳は行われていなかった。14年に初めて行われたのは、13年に戸邊が2m28、衛藤昂(AGF)が2m27と好記録を跳んだからだろう。そして14年大会は建て替え前の最後の陸上競技大会として、旧国立競技場で行われた。

 そこで戸邊は2m31と、自身初の2m30越えに成功した。日本人初の2m30ジャンパーとなった阪本孝男が、1984年にマークした国立競技場日本人最高記録を上回ったのだ。

 そして戸邊が今年「目標というより目安」としているのは、11月までは適用期間外ではあるが、2m33の東京五輪標準記録である。つまり旧国立最後の大会で国立競技場日本人最高をマークした戸邊が、新国立最初の大会でその記録を更新しようとしているのだ。

 ちなみに14年GGPで優勝したのは、前年の世界陸上モスクワ大会金メダリストのB・ボンダレンコ(ウクライナ)で2m40だった。この記録は91年世界陸上東京大会でC・オースティン(米国)が跳んだ2m38を上回る、国立競技場最高記録だった。

 しかし当時の戸邊は、同じ2m30台でも跳躍技術が今とは違っていた。14年GGPの助走歩数は9歩で、そのシーズンはGGPも含め4試合で2m30台をクリアしたが、8月以降の2試合は7歩助走だった。
 15年以降はケガなどで低迷し、17年までは2m30を跳ぶことができなかったが、18年には再び、4試合で2m30台を跳んだ。歩数は9歩に戻して2試合で2m30台を跳んだが、6月には8歩、7月には6歩で大台を跳んでいる。

 踏み切り時の腕の使い方も14年GGP当時はダブルアームアクション(踏み切り後に両手を挙げて一連の跳躍姿勢をコントロールする跳び方)だったが、18年秋以降はシングルアームアクションにしている。シングルアームにすることで、ダブルアームの頃のクセだった踏み切り2〜1歩前に重心が浮くことを抑えようとしたが、完全に修正できなかった。

 それで踵接地の発想につながったのだが、上記以外にも戸邊は細かい技術変更をいくつも行ってきた。他でもない「東京五輪を一番良い技術で跳ぶため」だ。

 五輪前年だった19年シーズン前に大きな技術変更に踏み切ったのも、2年続けて五輪前年となった今年もまた大きな変更をしたのも、一貫した考え方をしている結果である。

 国立競技場という場所に焦点を当てて見ることで、戸邊の変化を明確に理解できる。

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