コシノジュンコ MASACA

ファッションデザイナー:コシノジュンコが、それぞれのジャンルのトップランナーをゲストに迎え、人と人の繋がりや、出会いと共感を発見する30分。MASACA!な驚きを創造する人々…MASACA!な未来を想像する人々…そんな人々との出会い「MASACA!」がCREATIONを生み出す!

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コシノジュンコ MASACA
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出演者

コシノジュンコ
大阪府岸和田生まれ。78年パリコレデビュー。世界各地にてショウを開催。オペラやブロードウェイミュージカルの舞台衣装、スポーツユニフォーム、インテリアデザイン等幅広く活動。MASACAは初のラジオレギュラー番組。

出演者

出水 麻衣
TBSアナウンサー。
1984年2月11日生まれ。東京都出身。
上智大学外国語学部英語学科卒。
趣味:特スポーツ観戦・グルメツアー・観劇・ゴルフ・ランニングなど

2016年02月21日(日) 放送

ポーランドで名誉博士号をいただきました

出水:ジュンコ先生は、去年10月、ウッジ・ストシェミンスキ―芸術大学の名誉博士号を授章されました。日本-ポーランド国交樹立80周年の一環で1999年にポーランドで初めてファッションショーを開催されて以来、ファッションや芸術にとどまらず、日本とポーランドの友好関係の促進に貢献されてきまして、その功績がたたえられての授与となりました。
難しい名前ですけど、どういう大学ですか?
JK:ウッジっていう場所にある大学なんですね。
出水:地名なんですね。
JK:ワルシャワから1時間くらい車に乗って、そこには大学が25個くらいあるんだけど、その中にある芸術大学。
珍しいのは日本でいう芸大にファッション科があるんです。ファッションというのは物を作るだけじゃなくて、染色から色んな建築なんかもあるので、建築的な洋服とか、なんかモダンなものに物凄く憧れているというのかな、傾向が違った角度でファッションを見るので、凄く面白いのよ。だから実験とか、そういう物が可能なんですね。そこでファッションショーって言いながら、映像とファションというので、ライブになるんだけどね。
それとね、ショパンの国じゃないですか。ポーランドと言えば。誰でもね、音楽の知識を持っている人が多いんです。大分前の話になるんですけどね、ショパン国際ピアノコンクールの審査員で中村紘子さんが、丁度たまたまいらして、ニューヨークからロンドン経由でいらしたんですよ。そしたらね、自分のスコアから衣装から全部トランクに入れて、そのトランクがどっかいなくなっちゃったの。で、もうエライ大変で、審査員で来ていて、大変なのとき。
それであと、私がショーをやると、そのあとに直行便が出来るの。ジンクスじゃないけど。
出水:そうなんです。ジュンコ先生がワルシャワでショーをやったおかげか、成田とワルシャワを結ぶ、初の直行便が就航したんですよね。
JK:そう。LOTっていう、ポーランド航空。だからね、これからまっすぐ行けますよ。
出水:11時間30分くらいで。
JK:ヨーロッパだいたいそのくらいですよね。

ゲスト:山本寛斎さん パート2
MASACA デビッド・ボウイの衣装について、アノ方から連絡が・・・

出水:山本寛斎さんは1971年代、世界的ロックスター、デビッド・ボウイのステージ衣装を手掛けていらっしゃるんですね。
寛斎:はい。
出水:残念ながらデビッド・ボウイさんは、今年1月10日に突然の訃報が伝えられまして、二日前の8日に69歳の誕生日を迎えたばかりということで、非常に急で驚かれたと思うんですが・・・
寛斎:世界中からですね、メールやらその他で、お悔やみの連絡をもらったんですけど。私の方はね、彼との関係値で、積み残したことがあるんですな、はっきり言うと。彼は、ご自身の命の中で、ほぼ表現は全て完了されたんじゃないかと思っているんです。ところがですね、彼自身が知らない寛斎がハッキリといて、それは何かというと、デザイナーに留まっていない、いまやそれを超えるぐらいのネルギーをかけている、イベントのプロデューサー、演出家の部分で、彼とは一度も仕事をしたことが無かったわけです。で、生きている数年前で、ニューヨークのセントラルパークで、彼のコンサートを私がプロデュースさせてもらおうかと、当時イロイロな企業からお願いすると、約5億円くらい集まるんですね。その金額でニューヨークで、彼の方があまりギャランティーを請求されなければ、世界初の、衣装が変わってて、演出が変わってて、ということがやりたいなあ、と凄い願望として持っていたんですね。
ですから彼が亡くなったときに辛かったなあ、というよりも。
JK:悔しい?
寛斎:積み残した、宿題が残っているという感じで。だから今、気持ちの中は、ご本人はいらしゃいませんが、ですけども残した曲やら、彼についての記憶がありますから、いつの日か、私の想いを企てて実行してやろうと思っていますんで、いわゆる人が思っている、悲しそうですね、残念ですね、というのはないです。
JK:やり残しているというか・・・
寛斎:そうです。
JK:だけどデビッド・ボウイって、本当に美しいというか、それこそ玉三郎さんに憧れたというか、日本の歌舞伎の女形の美しい面は持っていたから、寛斎さんと出逢って眼が開いたというか、寛斎さんもボウイに逢えて、人生最高に得したというか、ラッキーだったと思うんですよ。

寛斎:話が飛びますが、私、彼と出会ってですね、展覧会来年日本来ますが、はっきり言って、私のがイチバン似合ってます。
JK:そう思います。
寛斎:そうでしょ。
JK:わたし、映画見たから。
私ね、デビッド・ボウイさんとパリで一緒に食事したことがあるんですよ。友達の友達で、それで6人で食事したんだけど、順番に座ったら、いまいるみたく目の前になっちゃったんですよ。見ていると、パントマイムやっていたから、食事のときも両手、左右対称に動く。その動きの手の美しさ、見とれてた。何を食べていたか忘れちゃったけど、手の動きが美しくて。
寛斎:全ての所作が完成されているというか・・・
JK:だって自分の生き方をね、パントマイムによって動きが決まったと思うのね。

出水:寛斎さんはワールドツアーのためにデビッド・ボウイさんに幾つか衣装を作っていらっしゃいますけれども、どういうイメージで、どういったことを意識されてデザインされたものなんですか?
寛斎:一番最初に彼に出会ったのはニューヨークなんです。ロンドンからニューヨークへ行って、いよいよアメリカのビジネスをスタートするよということで、ニューヨークのラジオシティミュージックホールで、その時に、友人の高橋靖子さんっていう、ロンドンのショーのときのプロデューサーが、彼用に私の服を集めて、彼に貸し出そうとしたという話があったんですね。私は彼が何者か知らなくて、どういうショーをするかも知らなくて、、何を申し上げたいかというとですね、その高橋靖子さんがニューヨークから、或る日電話がかかってきまして、日本時間で言うと夜中ですよ。とにかくすごいことがニューヨークで起きようとしているから、なんとしても来いよと。
JK:ニューヨークに来いと!?
寛斎:そうです。それが立て続けに30分おきにかかってきまして。最初の内は、また寝ようとしていましたが、これは余程大変なことなんだろうということで、飛びましたよ。スケジュール全部キャンセルして。
JK:ラジオシティって、6000人入りますよね。トニー賞あそこでやるんですよね。
寛斎:知らんかった。なぜ知らんかというと、私いきなり被り付きへ連れて行かれたんで、後ろにどれくらい人がいるか、スタートしたらわからないじゃないですか。
寛斎:それで、昨今の話があって、ガガさんから連絡があって、とにかく寛斎しか持っていないボウイのいくつかの関連のある服を渡しに着させてほしい、と。。。
JK/出水:へー・・・
寛斎:ここから先は彼女も秘密にしていらっしゃると思うんで。
出水:楽しみですね。
寛斎:それで現れると思いますよ。
寛斎:改めて、ボウイって、何が、この時代の幕開けをした人かというとですね。音楽という表現手段と、ファッションという種段と、この二つを使ったんですね。それと、性別というまぁ、カテゴリーに挑戦した人だと思いますね。


=オンエア楽曲=
M1. 夜の踊り (ショパン) / Sarah Brightman
M2. Changes / David Bowie

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