コシノジュンコ MASACA

ファッションデザイナー:コシノジュンコが、それぞれのジャンルのトップランナーをゲストに迎え、人と人の繋がりや、出会いと共感を発見する30分。MASACA!な驚きを創造する人々…MASACA!な未来を想像する人々…そんな人々との出会い「MASACA!」がCREATIONを生み出す!

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コシノジュンコ MASACA
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出演者

コシノジュンコ
大阪府岸和田生まれ。78年パリコレデビュー。世界各地にてショウを開催。オペラやブロードウェイミュージカルの舞台衣装、スポーツユニフォーム、インテリアデザイン等幅広く活動。MASACAは初のラジオレギュラー番組。

出演者

出水 麻衣
TBSアナウンサー。
1984年2月11日生まれ。東京都出身。
上智大学外国語学部英語学科卒。
趣味:特スポーツ観戦・グルメツアー・観劇・ゴルフ・ランニングなど

2015年05月10日(日) 放送

母の日。カーネーションと思い出の味。

JK:母の日と言えばカーネーション(※)ですよね。
私の母はラッキーだと思いますよ。カーネーションというテーマで、NHK連続ドラマ。

あれは事件ですよ私たちにとって。MASACAですよ。
まさか半年も連続ドラマになるとは思わなかったし。
私たちもあれ以来「カーネーションの・・・」っていう肩書がついたかもしれない。
だから私が講演とかに行くと、必ずカーネーションもらうんですよ。
イメージ着いちゃった。

出水:連続ドラマになるのも、お母様の悲願だったとか・・・

JK:毎朝みていて、あんなふうになりたいな、なんて、
それが現実になっていくなんてね。

※「カーネーション」
2011年10月から翌3月まで、NHKで放送された連続テレビ小説。
コシノジュンコの母:小篠綾子(2006年没)の生涯を基に描いたフィクション。




JK:ウチのおかあちゃんはグルメでしたからね。
とにかく忙しくてもチャチャチャっと作ってパッと食べて。
準備して食べて、全部で1時間なんですよ。
だからね、フレッシュな食べどきていうのを私達覚えたわね。

すぐ近くが市場なんですよ。
美味しいものとはフレッシュなものだと思っていましたね。

出水:思い出の味って・・・・

JK:鯛茶漬けなんです。近所にお魚屋さんとかあるから、
鯛を買って来て、アツアツのごはんの上に、鯛のお刺身を置いて、
ワサビを置いて、お葱を置いて、玉露を置いて。これを一瞬でやらないと冷めるんですよ。

ぱっと、これを一瞬のうちにやらなくちゃ。
一瞬でぱっとやれるように、ぱっと蓋をして、「絶対に開けちゃだめよ!」
ていう感じでじーっと待つ、というのを想い出しますね。

三國清三さんパート2
MASACA!数の子親善大使に・・・

JK:今日は母の日、思い出すでしょ。母の味、とか?



三國:僕は増毛というところで生まれて、北海道の日本海の方なんですけど。
親父が漁師で、おふくろが農家やってて。
親父はもう大分前に亡くなったんですけど、
おふくろはまだ増毛で一人で暮らしているんですけどね。

JK:鰊(ニシン)の産地で。

三國:昭和28年に、増毛の沖で鰊が一匹も獲れなくなったんです。

JK:鰊御殿が建てられるくらい凄かったのよね。
それがバタッと・・・。どこ行っちゃったんでしょうね。

三國:いまだに判らないんですよ。

JK:その鰊が京都に行って、鰊蕎麦とか・・・

三國:北前船ってね。船が福井から上がっていくんです。
ずっと北海道へ。そこでいろいろな荷物を積んで、
昆布とか鰊とかが運ばれて日本中で食べられるようになったんです。

昭和28年に一匹も増毛でいなくなったのね。、
で僕は昭和29年に生まれたんです。
だから僕は鰊の生まれ変わりなんです。
そうやってずーっとホラ吹いていたら、去年、
カナダ政府から、「三國さん鰊の生まれ変わりなんだって?」
って言われて、「カズノコ親善大使」になってくれって。
去年からカナダのカズノコ親善大使になったの。

いまでは日本で食べる全体の60%か70%がカナダから輸入しています。
で、留萌とか増毛で加工されて出荷されて。そういうご縁があって。

僕は1954年生まれなんですけど、僕の歳から中学から高校へ進学するのが当たり前になったんです。
ウチは漁師町で鰊が獲れなくなって貧乏になって、高校行けなかったんです。



JK:やっぱり運命って面白いね。そういう最悪の場面から、なにくそーっていうのあるじゃないですか。

三國:ウチ、畑もやっていましたからね。
親父とお袋は、朝の4時くらい、まだ暗いうちに畑に行くんですよ。
で、お味噌汁だけは作ってくれるわけ。
兄弟7人、自分たちで温めて食べてから学校行くんだけど、夜は(親は)帰ってくるのは夜7時か8時。
疲れて帰ってくるからだから僕らが料理を作って、料理ったってイモの煮っ転がしとか、そんなもんですよね。
そんな生活だったんで。貧乏だけど、親を怨むということはなかったですね。

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