寺田的世陸別視点

女子1500mのオールスター的な戦い。
ケニア初の金メダルと800m金メダリストの参戦、そして世界記録保持者の敗退
優勝したフェイス・キピエゴン(ケニア)の感激する様子が印象的だった女子1500m。
この種目はコラム第16回で紹介したように、リオ五輪金メダリストのキピエゴン、世界記録保持者のゲンゼベ・ディババ(エチオピア)、リオ五輪800m金メダリストのカスター・セメンヤ(南アフリカ)、そして地元期待のローラ・ミューア(英国)と、オールスター的に選手が揃ったレースだった。
勝敗を分けたのはキピエゴンのラストの強さだったが、主要選手が自分の得意パターンに持ち込もうとしたレース展開は興味深かった。各選手の思いが凝縮した4分間を、ロンドンスタジアムの観衆は堪能することができた。
ディババを目標に強くなったキピエゴン
4分02秒59で優勝したキピエゴンの喜び方は、本当に無邪気だった。
リオ五輪優勝時も、フィニッシュ後に倒れ込むとトラックを叩いて喜んだ。ロンドンではトラックを叩く前に、仰向けの状態で天に向けて両手を広げたシーンが加わっていた。トラックにキスする仕草や、立ち上がって天を仰ぎながら両手を挙げる様子は、彼女の喜びをストレートに表していた。
「神に感謝します。このレースにはディババさんがいました。セメンヤさんもいて、ミューアさんもいた。世界陸上の金メダルは初めてなので、とてもうれしいです」
2年前の北京世界陸上は、ディババに敗れて銀メダルだったが、そのときのコメントにキピエゴンが感激する理由の一端があった。
「ディババさん(の後半)が速かった。でも、速い展開は私も好きです。彼女を追い上げたかったのですが、彼女こそが真の勝者。私のアイドルであり、友人でもあるんです。彼女と一緒のレースでの銀メダルは、金メダルと同じ価値があると思います」
キピエゴンの強さは、終盤にペースアップした選手を追走し、さらにラスト200mやラスト100mでスパートする。その勝ちパターンを身につけたのがリオ五輪で、逃げるディババを残り200mで抜き去った。
今大会のディババは不調だったが、シファン・ハッサン(オランダ)がディババのように残り700mでペースアップ。ハッサンを追走したキピエゴンは、最後の直線で2位以下を大きく引き離した。
ラスト300mのデータを比べると、キピエゴンの成長ぶりがわかる。リオ五輪の45秒02に対し、世界陸上ロンドンは43秒65。キピエゴンの勝ちパターンは、目標とするディババを超えるために頑張った結果だった。
レース展開を左右した地元のミューアと、エチオピア出身のハッサン
スタート直後に先頭に立ったのは、地元英国のミューアだった。400m通過(1周目)は1分05秒35と速かったが、2周目(800m通過)は1分11秒78にペースダウン。
「セメンヤさんやハッサンさんが後半に上げてくると思ったので、2周目にエネルギーを使いたくなかったんです」
後半のペースアップに備えての、2周目のペースダウンだった。
昨年3分55秒22の英国記録をマークし、3000mのヨーロッパ室内記録と5000mの英国室内記録も持つが、400mの自己記録は55秒36と速くない(あまり出場していない可能性もあるが)。ロングスパートで雌雄を決するのは、ミューアも望むところだった。
800mから前に出たのは、ミューアが予想したうちの1人、ハッサンだった。2013年にエチオピアからオランダに帰化した24歳。7月のダイヤモンドリーグ・パリ大会では、キピエゴンに競り勝ってロンドンに乗り込んでいた。
「リオ五輪のときより身体的にも良い状態にありますし、メンタリティーも変わっています。自信を持てるようになりました」
期するものがあったのだろう。先頭に立ったハッサンの表情からは、強い意思が伝わってきた。3周目(1200m通過)は1分01秒81までペースアップ。キピエゴン以外の選手を3m以上引き離して1300mを通過したが、ラスト300mのキピエゴンは、前述のようにリオ五輪よりもさらに強くなっていた。
ハッサンは最後の直線でキピエゴンに引き離されると、追い上げてきたミューア、さらにはセメンヤ、ジェニファー・シンプソン(米国)に抜かれて5位に。金メダルを狙って勝負に出たが、最後に力尽きてしまった。
800mで金メダルを狙うセメンヤ。不調のディババは5000mにエントリー
セメンヤはラスト100m地点で、先頭からゆうに5m以上は引き離されていた。最後の直線で猛烈な追い上げを見せて3位に入ったが、この後れが敗因となった。
コラム第16回
http://www.tbs.co.jp/seriku/column/terada/cl_201708072100.html
で紹介したように、400mは50秒40と、1500mの選手のなかでは断トツのスピードを持つ。ハッサンが800mで前に出たときに引き離されてしまったのだが、本職の800mのレース中は必ず先頭に近い位置を確保しているだけに、セメンヤらしくないと思われた。
序盤の位置取りも7、8番手で、ポジション的にはいつでも先頭を望める場所を走ってはいたが、800mのときと比べると一歩引いている感じがあった。
「銅メダルは本当にうれしく思います。1500mは戦術的ですから、自分のスペースを見つけようと走っていました」
距離への不安も含め、不慣れな種目ということで自信を持って前に行けなかった。
ただ、本職の800mに向けては、1500mの銅メダルは大きな自信になる。7日目(8月10日)に予選、8日目(11日)に準決勝が行われるが、800mに絞っていた過去の五輪&世界陸上よりもエネルギーの使い方を低くできるかもしれない。
今大会で800m金、1500m銅と2つのメダルを取ることができれば、2年後のドーハ世界陸上、3年後の東京オリンピックでの中距離2冠も視野に入ってくる。
気になるのは世界記録保持者のディババの状態だ。
2年前の北京世界陸上が金メダル、昨年のリオ五輪が銀メダル。今季も5月には800mで自己新をマークし、同月末のダイヤモンドリーグ・ユージーン大会では姉のティルネッシュ・ディババ(エチオピア)が持つ5000mの世界記録にも挑戦した。
ところが6月のダイヤモンドリーグ・ローマ大会から走りがおかしくなり始め、今大会は調子が底の状態で迎えてしまっている。最下位の12位でフィニッシュした後に遠くを見つめていたが、何を思っていたのだろう。
7日目(8月10日)の5000m予選にエントリーしているディババ。5000mは姉のティルネッシュが03年、05年と優勝している種目。気持ちを切り換えられれば、メダルの可能性はある。
寺田 辰朗(てらだ たつお)プロフィール
陸上競技専門のフリーライター。
陸上競技マガジン編集部に12年4カ月勤務後に独立。
専門誌出身の特徴を生かし、陸上競技の詳しい情報を紹介することをライフワークとする。
一見、数字の羅列に見えるデータから、その中に潜む人間ドラマを見つけだすことは当代随一。
地道な資料整理など、泥臭い仕事が自身のバックボーンだと言う。
選手、指導者たちからの信頼も厚い。AJPS(日本スポーツプレス協会)会員。
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