8月4日開幕

寺田的世陸別視点

第5回2017.07.27

展望コラム(5) 川内優輝
川内は“ラスト代表”。市民ランナースタイルの集大成としてロンドンで輝く

川内優輝(埼玉県庁)ほど、近年のマラソン界で異色と言えるトップ選手はいない。
箱根駅伝には関東学連選抜として出場したが、大学まで全国規模の大会で活躍したことはなかった。
大学卒業後に市民ランナースタイルで自身をマネジメント、強化をして2011年のテグ世界陸上で初の代表入り。13年モスクワ世界陸上、14年仁川アジア大会と出場してきた。ロンドンが3回目の世界陸上となるが、代表として走るのは今回が最後だと表明している(来年以降の国際大会は、苦手とする暑さの中でのレースとなるため)。
最後の舞台で入賞を達成するための準備を、川内が着々と進めている。

英国大使館で熱き決意表明

英国大使館で行われた壮行会(7月21日)でのことだった。
伊東浩司監督から男子主将に指名された川内優輝は、「選手代表としてお礼と、決意表明を述べさせていただきます」と話し始めた。異例とも言える4分以上の決意表明は、日本選手団への檄ともいえる内容だった。

「私自身、(仁川アジア大会以来)3年ぶりの代表、3回目の世界陸上代表となりました。初代表だった2011年から7年目で、今回こそは、の思いが強くあります。伊東監督はいつもと違ってメダル、入賞の目標はないと言われましたが、選手1人1人が必ずベストを尽くすのだ、という強いメッセージが含まれているのではないかと思います。
2020年東京オリンピックを目指し、通過点と思っている選手もいるかもしれませんが、日本代表として戦う以上はロンドン世界陸上で結果を残すことが、選手1人1人に課せられた役目だと思っています。2011年テグ世界陸上の表彰式で、(当時行われていた)団体のメダルでしたが、日の丸が揚がっていくのを見た瞬間に、この一瞬のためにアスリートは全力を注いでいる、だからこそ日本国民の期待を背負ってやらなければいけないのだと感じました。
(中略)
ここにいる選手は必ず結果を残すんだ、という思いで挑むと思います。結果というのはある人は金メダルだったり、ある人はメダルだったり、ある人は入賞だったり、ある人は決勝進出だったりと、目標の違いはあると思いますが、自分の目標に向かって1人1人が全力を尽くしていくことが大事だと思いますし、日本国民もそれを望んでいると思います。私自身は過去2回の世界陸上で上手く結果を出せませんでした。もう一度あの舞台で戦いたい、プレッシャーの中でもしっかり戦わなければいけない、その思いがあったればこそ、今回また、こうした場に戻ってきたわけです。
(中略)
初めての代表は23歳のときでしたが、今こうして30歳になって、あの頃とは違う重みも色々と出てきました。2011年は(マラソン以外の大会も含め)海外遠征3回の経験しかありませんでしたが、今は40回近くしていますので、経験を生かし、このロンドンで何とか自分の思いを発揮したい。
(後略)」

日本選手団への檄であると同時に、自身の代表としての歩みと、それを踏まえてのロンドンに臨む不退転の決意。川内の熱い思いを込めた内容だった。

異色の市民ランナースタイル

川内の最大の功績は、市民ランナー・スタイルの強化でも代表になれると示したことだろう。
定時制高校の事務職員としてフルタイム勤務し、負荷の大きいポイント練習はできて週に2回、平日の練習は午前中だけという練習環境だ。月間走行距離は500〜600kmで、トップ選手のなかでは半分程度。その環境で強くなるために考案したのが、毎週レースに出場してポイント練習代わりに活用することだった。

マラソンに限っても、初代表となった2011年こそ年間5レースの出場だったが、翌12年には9レース、モスクワ世界陸上に出場した13年には11レースと増え、仁川アジア大会に出場した14年には13レースと年間最多本数を記録。月に1本ペースが定着している。
2013年の取材時には、自身のスタイルについて以下のように話していた。
「実業団ランナー、プロランナー、市民ランナーと、やり方はそれぞれだと思いますが、1つの可能性を示したい気持ちはあります。一部練(1日に1回の練習。学生や実業団選手は通常2部練習で、合宿などでは3部練習も行う)しかできない環境でも、やればできる。そういう人たちのきっかけになれば、日本の陸上競技が面白くなると思います」
2カ月連続の2時間8分台や、中13日での2レース連続2時間9分台、そして2時間10分未満日本人最多の12レースと、日本マラソン界の常識を打ち破る快走を続けて来た。

【川内優輝の年別マラソン回数とシーズンベスト、代表レース成績】
年、年間マラソン数(海外回数)|シーズンベスト|代表レース|順位(記録)
2009、3(0)|2.17.33.|
2010、2(0)|2.12.36.|
2011、5(1)|2.08.37.|世界陸上テグ|18(2.16.11.)
2012、9(3)|2.10.29.|
2013、11(6)|2.08.14.|世界陸上モスクワ|18(2.15.35.)
2014、13(5)|2.09.36.|仁川アジア大会|3(2.12.42.)
2015、13(6)|2.12.13.|
2016、9(5)|2.09.01.|
2017、5(4)|2.09.18.|世界陸上ロンドン|
合計⇒70回(30)

国際大会で最も順調な調整

レースで追い込んだら、しっかり休む。それが川内流の故障を回避する方法だったが、川内も生身の人間である。2014年末から15年8月までは故障に苦しみ、リオ五輪代表を狙った15年12月の福岡国際マラソンは、レース中に痙攣を起こして8位(日本人4位・2時間12分48秒)と敗れた。
だが、ただでは起きないのが川内で、昨年12月の福岡国際マラソンで3位(日本人1位・2時間09分11秒)となって世界陸上代表入りを決めた。このときも11月に故障をして、調整レースの上尾シティハーフで大敗。福岡のレース後に「64回目のマラソンで奇跡が起きた」と川内は感慨深く語ったが、過去の経験を総動員した結果だった。
その年から100km走や7時間、8時間のトレイルラン(山中を走り続けること)を取り入れたこともプラスに働いた。結果的に以前よりも走行距離は増えたが、週に1本超長距離走を入れても、平日はジョッグのみというスタイルは変わらなかった。他のマラソン選手のような走行距離にはならず、市民ランナースタイルを崩したわけではなかった。

ロンドンへの調整ぶりを、壮行会で決意表明をした後の取材で次のように話した。
「過去の世界大会と比べ、かなり順調に来ています。今年に入って100kmは1回だけですが、50kmやトレイルは5、6本行いましたし、月に1本の海外フルマラソンにも出場してきました。そのなかで7月のゴールドコーストで、目標通りに10分を切った(2時間09分18秒)ことは良かったですね。モスクワ世界陸上の前と比べて30秒以上速いですし、(本番の時期は違うが)仁川のときよりも良い流れで来ていると思います。(ロードレース出場は)以前よりも数を絞っていますが、レース間隔は1カ月以上は空けない方が良い。私はレース依存症ですから(笑)、2週間出ないと早く走りたくてイライラしてきます。それもプラスに働いている」
2013年、14年ほど高いレベルの連戦はできなくなっているが、ピークを合わせる能力は上がっている。代表としての最後の大会の結果は、そこにかかっている。

2つの価値観を持つ選手だからこそ

代表としての走りに大きな意欲を持つ一方、川内は走ることに別の価値観も持っている。
昨年12月の福岡国際マラソンの2週後には、防府マラソンを走った。自身が3位(2時間12分45秒)でフィニッシュした後、フィールドでダウンジョッグを行いながら、ゴールへ向かう市民ランナーたちに声をかけ続けた。
「ラストです!」
「3時間切れますよ!」
それを表彰式の時間が来るまで続けていた。声をかけた数は数百人になっただろう。市民ランナーの一員として、川内にとっては普通の行動なのだ。
世界陸上ロンドン以降は代表は目指さないが、選考会に指定されているレースにも出場して記録を狙う。代表を目標とする選手たちの壁となって、レベルアップの一助になりたいという。将来の目標は日本中のマラソン大会を走ることで、ランニングをツールとした埼玉県の活性化に取り組んでいくプランも持つ。
そうした別の価値観を持ちながら、代表に対して熱い気持ちを持ち続けている。

世界陸上ロンドンが最後の代表と明言しているのも、次にやりたいことがあるからではなく、代表への意識が高いからに他ならない。来年以降のアジア大会、世界陸上、オリンピックの開催地を考えると、暑さに弱い自分が戦えないことは明らかだからだ。
「2011年から言い続けていますが、代表になる以上は結果を残さないといけない。結果を残せないのであれば、代表になってはいけないと思っています。(冬のマラソンで記録を狙うなど)違った価値感のなかで頑張る方が良い」
代表に対する価値観がメインで、市民ランナーとしての価値観がサブ、ということではない。どちらもメインなのだ。その両方があるから、川内は強くなることができた。

昨年の福岡は、脚の状態が悪いなかで強硬出場した。普通の選手なら、2〜3月の選考レースにスライドするケースだったが、一度招待を受けたら断らないのが川内の競技哲学でもある。恵まれない練習環境でも成長できたのは、各大会が招待してくれたから。そのスタイルを崩して走ることは、川内にはできなかった。
また、代表という立場になったら、多少状態が悪くても出場しなければならない。
「ここで欠場したら、脚がちょっと痛いからやめる、ちょっと状態が悪いから走らない、という選手になってしまう。日本代表で何度か走って、代表というのはそういうものじゃない、と感じてきました」
市民ランナーとして強くなった川内だからこそ、最後の代表と決めていた世界陸上へ、「奇跡」と言える代表入りができた。
調整が順調に進んでいる今回は、福岡のようにギリギリで結果を出すというよりも、予想を大きく上回る成績を残す態勢ができているのではないか。川内は日本チームでの「複数入賞」ということも口にしている。
それを達成したときロンドンは、市民ランナーと代表を両立させてきた川内優輝として、最後に輝く場所となる。

寺田 辰朗(てらだ たつお)プロフィール

陸上競技専門のフリーライター。
陸上競技マガジン編集部に12年4カ月勤務後に独立。
専門誌出身の特徴を生かし、陸上競技の詳しい情報を紹介することをライフワークとする。
一見、数字の羅列に見えるデータから、その中に潜む人間ドラマを見つけだすことは当代随一。
地道な資料整理など、泥臭い仕事が自身のバックボーンだと言う。
選手、指導者たちからの信頼も厚い。AJPS(日本スポーツプレス協会)会員。

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