8月4日開幕

寺田的世陸別視点

第2回2017.07.16

展望コラム(2) 中本健太郎&重友梨佐
明暗分かれたロンドン五輪から5年。
苦しい時期を乗り越えて再びロンドンを走る男女ベテランコンビの思いとは?

今年の世界陸上マラソンは男女同日開催となった。
その8月6日、5年分の思いを胸にロンドンを走る男女のベテラン選手がいる。
重友梨佐(天満屋)はロンドン五輪で79位(2時間40分06秒)と大敗したのに対し、中本健太郎(安川電機)は6位入賞(2時間11分16秒)と、対照的な成績を残した。「やりきったと思える走りをしたい」(重友)、「世界のもっと上で戦いたい」(中本)。それぞれの思いで走り続けたが、2人とも苦しんだ数年間を経験している。
2人が立ち直った理由はいくつかあるが、家族の存在もその1つだった。

「やり切った姿を母に見せたい」(重友)

重友が競技をやめていても、誰も彼女を責められなかっただろう。その状況が2度あった。最初は2012年のロンドン五輪で大敗したとき、2度目は2016年のリオ五輪選考会で敗れたときだ。
今から思うとロンドン五輪の重友には、過度の期待がかけられていた。選考会の大阪国際女子マラソンに2時間23分23秒で優勝。08年北京五輪で連続メダル(92年銀、96年銅、00年金、04年金)が途切れた日本女子マラソン界で、5年ぶりに2時間24分未満のタイムを出していた。
エース不在の代表トリオの中で、持ちタイムと若さに期待が集まった。世界で戦える素材だったことは間違いないが、マラソンで結果を出したのはその一度だけ。24歳の重友に、練習に狂いが生じたときに立て直す力はなかった。

【重友梨佐のマラソン全成績】
回数、年月日|大会|順位(日本人)|記録
1、2011.4.17|ロンドン|21位(7)|2.31.28.
2、2012.1.29|大阪国際女子|1位(1)|2.23.23.
3、2012.8.05|ロンドン五輪|76位(3)|2.40.06.
4、2013.8.25|北海道|13位(12)|2.51.55.
5、2013.11.03|ニューヨークシティ|11(1)|2.31.54.
6、2014.1.26|大阪国際女子|63位(57)|2.58.45.
7、2015.1.25|大阪国際女子|2位(1)|2.26.39.
8、2015.8.30|北京世界陸上|14位(3)|2.32.37.
9、2016.1.31|大阪国際女子|5位(4)|2.30.40.
10、2017.1.29|大阪国際女子|1位(1)|2.24.22.

リオ五輪の選考会の16年大阪国際女子は5位と敗れた。絶不調だった13〜14年から立ち直って15年の北京世界陸上に出場。2度目の五輪代表も十分狙えたが、天満屋の連続代表(00年、04年、08年、12年に代表を輩出)を途切れさせてしまった。ロンドン五輪後の4年間は、リオ五輪を最大目標に頑張ってきた。すぐに20年東京に目標を切り換えられる年齢ではなく、引退を決意してもおかしくない状況だった。

しかし重友は走り続けた。若い頃と比べ試合数は減ったが、例年のように駅伝にも出場し、4年連続で1月の大阪国際女子に出場。初めて後方から追い上げるレース展開にも挑戦し、5年ぶりの優勝を果たした。
「(引退しなかったのは)悪いときにやめたくない、その状態で終わりたくない、という気持ちが一番ですね」と重友。
もう1つの思いが、支えてくれた人たちへの感謝の気持ちを走りで見せたかったこと。特に母親の民恵さんへの思いが、ロンドン五輪以後も走り続けた理由の1つだった。
「母は芯が強く、こうと決めたらやり抜く人。私のこともずっと応援してくれていますが、甘やかす感じの応援ではありません。『あなたが後悔しないなら、いつやめてもいいよ』と、中学・高校の頃から言われ続けてきました。私の性格も知っているから、やり切らずにやめることはないとわかっているんでしょうね。結果の良し悪しでどうこう言うことはありませんが、さすがにロンドン五輪の後は母もやめると思っていたかもしれません。やりきった私を母に見てもらいたい。その思いもあって続けてきました」
今年の大阪国際女子のときも、フィニッシュテープを切る重友の表情に万感の思いが込められていた。世界陸上ロンドンのフィニッシュ地点であるタワーブリッジに、重友はどんな表情で飛び込んでくるのだろう。

重友の新たなトレーニング

天満屋は重友を含めて4人の五輪代表を輩出しているが、マラソン練習は選手毎に大きく違っている。日常生活や競技に取り組む姿勢に共通するものはあるが、メニューは選手個々の適性に合った内容を武冨豊監督が考案する。
重友は5年前の大阪国際女子優勝の頃を「何も知らないで、ただチャレンジする感じだった」と振り返った。そういうときに、すごい練習ができてしまうこともある。だから独走で2時間23分台を出すことができた。
その練習を継続できれば苦労はないのだが、トップ選手もスーパーマンではない。痛みや体調不良も出るし、時には精神面の不調で予定の練習ができなくなる。あるいは練習はできても潜在的な疲労が蓄積し、レースで力を発揮できなくなることもある。
武冨監督は「最初の頃と比べると、距離とスピードの両方を追えなくなっている」と言う。低迷から脱出した15年は地道な走り込みが増え、それに加えて動きづくりのドリルも積極的に行い始めた。今回はその2つの面をさらに推し進めているイメージだ。
「2時間23分を出した後も、そのレベルを国際大会でも出せばメダル争いができましたし、国内でも自己記録を狙ってスピードは追っていました。今はタイムにはこだわりすぎず、距離をしっかりねちっこく走り込む練習です。選手にとっては嫌な練習だと思いますよ」
走り込みの時期は1200kmだった1カ月の走行距離が、「今回は1300kmを超えた」という。それだけ走り込むと腰が落ちてスピードを出しにくいフォームになってしまうこともあるが、「腰の位置を高く保つ」フォームが維持できている。
「専門のトレーナーに合宿にも来てもらって、動きや体のバランスをチェックしてもらっています。股関節を動かして、太腿の前側が使えるようになりました。以前はスタッフが本などで勉強して、我々がわかる範囲でアドバイスしていましたから」

今年の大阪国際女子前と比べても、この両面は大きく変わっているという。
重友自身は今回のマラソン練習をどう感じているのか。
「粘り強くやっている、という言葉が一番ピッタリしています。今までは(負荷の大きい)メニューをやったら、何日か開けて、スピード練習も入れて、体が動く状態にしてから次の(負荷の大きい)メニューを行ってきました。今は体が動かない状態でどう動かすか、というところを考えて行っています」
武冨監督は今の日本のマラソン界が、以前ほど「泥くさい練習」ができなくなっていることに懸念を抱いてきた。若年層からスピード化が進み、トラックのタイムはそこそこ出せるようになっても、マラソンに結びついて来ない。その溝を埋めるためのヒントが、今回の重友の練習にあると考えている。
重友は世界陸上の目標を「レースの流れに乗ること。2時間25~26分で入賞の結果を残したい」と話した。アフリカ勢が急激なペースアップを見せたときに対応できなくても、慌てずに追って落ちてきた選手をかわしていく。5年前のロンドンでは積極的に先頭に立つ重友がいたが、今年のロンドンでは違ったレース展開をする重友が見られるだろう。

中本の新たな感覚

中本は5年前、後半も粘って順位を上げる走り方で6位入賞を勝ちとった。
今回の重友が目指している走りに近かった。その後は2時間7分台を狙うプランを描き、それができれば得意とする夏場の五輪&世界陸上でメダル争いも可能と考えた。
だが、翌13年の別大で2時間08分35秒の自己新を出し、モスクワ世界陸上で5位と順位を上げたものの、その後は故障を繰り返してマラソンを欠場することが多くなった。故障を避けることを優先して考えなければならず、練習も徐々に変化してきている。
「以前は40km走から中1日で、次の(負荷の大きい)ポイント練習を行っていましたが、今は中2日に変えました。設定タイムも、以前は後半に上げていましたが、今はそこまで上げずに、疲労を残さないことを優先しています」
ここ1年くらいはケガなしで頑張ることができている。40km走も「以前よりは3〜4分抑えている」が、それでも今年の別大で2時間09分32秒と自己記録に1分と迫った。
「ガツガツやっていなくても9分半を出すことができた」と、今のやり方でも結果を出す手応えも感じている。

そして今回の世界陸上ロンドンへの準備段階で、「新しい発見」があった。5月に仙台ハーフマラソンと九州実業団1万mに2週連続で出場し、1万mでは28分58秒98を出すことができた。レベル自体は高くないが、中本にとっては自己2番目の記録である。
「疲労があるなかでも29分20秒くらいで行ければいいと思っていたのですが、意外と動きましたね。これまでトラックは、スピードからアプローチしないと走れないと思っていましたが、スタミナで押して行っても走れるとわかりました。それはマラソンにつながるのかな」
中本の世界陸上ロンドンでの目標は「入賞が最低ライン。モスクワで5位だったので、できればそれを上回りたい」と設定している。メダルを目標にするレベルまでは達しなかったが、ロンドン五輪と同じ展開に持ち込む自信はある。
しかし仮に同じような順位、同じようなレース展開になったとしても、本番に向けての調整は5年前と違っている可能性は大きい。そのパターンを身につけて戻ってきたことは、ランナーとして成長したことを物語っている。

「家庭は安らげる場所」(中本)

高校・大学と個人種目の全国大会では、まったく実績のなかった中本。実業団入りに際しても、自身が五輪&世界陸上で入賞することはもちろん、日本代表に入ることさえ考えていなかった。そんな選手がロンドン五輪で入賞したのだから、そこで満足してもおかしくなかった。
「自分でも不思議なのですが、達成感はあったのに燃え尽きてはいなかった。マラソンで結果が出始めて、陸上競技が楽しく感じられるようになった頃でした。記録ももっと出したいと思いましたし、世界ともっと戦ってみたい、と思うようになりました」

【中本健太郎のマラソン全成績】
回数、年月日|大会|順位(日本人)|記録
1、2008.2.24|延岡西日本|3位(3)|2.13.54.
2、2008.8.31|北海道|2位(2)|2.15.21.
3、2009.3.22|東京|9位(5)|2.13.53.
4、2010.2.07|別大|8位(3)|2.11.42.
5、2010.10.17|アムステルダム|9位(1)|2.12.38.
6、2011.3.06|びわ湖|4位(2)|2.09.31.
7、2011.9.04|テグ世界陸上|10位(2)|2.13.10.
8、2012.3.04|びわ湖|5位(2)|2.08.53.
9、2012.8.12|ロンドン五輪|6位(1)|2.11.16.
10、2013.2.03|別大|2位(2)|2.08.35.
11、2013.8.17|モスクワ世界陸上|5位(1)|2.10.50.
12、2014.12.07|福岡国際|12位(6)|2.11.58.
13、2016.3.06|びわ湖|8位(6)|2.12.06.
14、2017.2.05|別大|1位(1)|2.09.32.

人生の転機は、「マラソンを始めたこと」だったと中本はいう。入社時には20代後半になって走れれば良い、と考えていたが、駅伝で結果を残せなかったため、25歳と予定よりも早くマラソンに出場することになった。毎レース確実にステップアップし、11年テグ世界陸上に出場。国内選考会では3年連続日本人2位ながら、ロンドン五輪6位、モスクワ世界陸上5位と、国際大会では日本人最上位で連続入賞した。
結果も嬉しかったが、そこまでの過程にやりがいを感じられるようになった。
家庭も、競技を続けている(続けられている)理由に挙げる。ロンドン五輪のシーズンの6月に生まれた長男に、父親が走っている姿を記憶にとどめてもらいたい。
「家庭は陸上を忘れさせてくれる場所なので、心休まる大事な存在だと思っています。妻は陸上のことは全然知らなくて、競技については何も言ってきません。それが自分にとっては楽なのかもしれませんね」
故障で苦しんだ14〜15年は、「結果論として、あの時期があったから復帰できた」と肯定的にとらえているが、実際には「悔しい気持ちと、3年間代表を続けていたので精神的にひと息つけた気持ちと、焦りとで、ゴチャゴチャしていた」。家庭がなかったら、ゴチャゴチャから抜け出せなかった可能性もある。

マラソンが強くなる過程から充実感を得て、家庭を安らぎの場と、モチベーションとして頑張ってきた。その結果として今、再びロンドンで世界に挑む立場になった。
34歳になって世界に挑戦する姿は、入社時には考えてもいなかったことだ。
「確かに予想外の場所ですけど、なんと言われようと自分でつかんできた場所です。マラソンは、自分が結果を残して来たと言える道なんです」
2度目のロンドンはささやかなプライドが、最初のロンドンとの大きな違いである。

寺田 辰朗(てらだ たつお)プロフィール

陸上競技専門のフリーライター。
陸上競技マガジン編集部に12年4カ月勤務後に独立。
専門誌出身の特徴を生かし、陸上競技の詳しい情報を紹介することをライフワークとする。
一見、数字の羅列に見えるデータから、その中に潜む人間ドラマを見つけだすことは当代随一。
地道な資料整理など、泥臭い仕事が自身のバックボーンだと言う。
選手、指導者たちからの信頼も厚い。AJPS(日本スポーツプレス協会)会員。

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