寺田的世陸別視点

展望コラム(10) ウサイン・ボルト
朝原宣治さんとボルト担当が語る“ラスト・ボルト”の見どころ
いよいよ世界陸上ロンドンが開幕する。この大会は改めて言うまでもなく、ウサイン・ボルト(ジャマイカ)の現役最後の世界陸上だ。
ボルトの功績はいくつもある。
1つは記録的な業績で、100mの世界記録を3度、200mの世界記録を2度更新したこと。
2つめは五輪&世界陸上で、勝ち続けたこと。さらには、観衆の応援を喚起し、さらには自身の力としていたこと。
100mの世界記録は08年5月末に9秒72をマークすると、同年の北京五輪で9秒69、そして09年ベルリン世界陸上で9秒58と3回更新した。つまり人類初の9秒6台も、人類唯一の9秒5台もボルトがマークした。
大試合での強さも特筆される。08年北京五輪で100mと200mの2冠を達成すると、100mで失格した11年テグ世界陸上こそ200mだけの個人タイトルだったが、09年ベルリン世界陸上、12年ロンドン五輪、13年モスクワ世界陸上、15年北京世界陸上、そして16年リオ五輪と、個人2種目で勝ち続けた。
3つめは、周囲を自分のペースに巻き込む力、とも言い換えられる。ボルトは陸上競技を楽しみたい気持ちが強く、レース前からスタンドやテレビカメラに向かって独特のパフォーマンスを行った。注目を集めること、観衆に応援してもらうことで自身の集中を高め、走りに結びつけていた。
TBS解説者の朝原宣治さん、取材をしてきたディレクター、実況をしてきたアナウンサーの証言から、ボルトの強さを浮き彫りにした。
最後の世界陸上100mでも見られるボルトの影響力
ボルトのすごさ、偉大さを最も感じているのが、同じスプリンターの朝原宣治さんだろう。
朝原さんは、ボルトの記録のレベルが高いから勝ち続けられたことを指摘する。
「ライバルたちとの巡り合わせもありますが、それだけ“山が高かった”ということだと思います。9秒58から記録は更新していなくても、ピーキング能力が高いので、その年の最高記録を五輪&世界陸上で出していました。9秒6~7台で走られたら、他の選手はなかなか勝てません」
ライバルは何人も現れた。前世界記録保持者のアサファ・パウエル(ジャマイカ)や、ベルリン世界陸上銀メダルのタイソン・ゲイ(米国)は、薬物に手を染めて出場停止を受けた。ロンドン五輪銀メダルのヨハン・ブレイク(ジャマイカ)は、故障でブランクが生じてしまった。13年からはジャスティン・ガトリン(米国)がボルトに挑んだが、いくら先行しても後半でボルトにかわされた。“ネクスト・ボルト”と期待されたアンドレ・ドグラス(カナダ)も、今大会直前に故障による欠場が発表された。
ライバルたちは、ボルトという“山”が存在するから、そこに挑戦しないではいられない。ボルトのレベルに到達しようと練習を頑張りすぎて、故障につながる傾向があることは否定できない。
レース展開的にも、北京五輪やベルリン世界陸上では早い段階でトップに立っていたが、モスクワ世界陸上や北京世界陸上では前半で先行されても、後半で必ず逆転した。そうしてボルトが勝ち続けることで、他の選手たちの潜在意識にボルトの強さがすり込まれた。
「どんなに劣勢でもボルトが勝ってしまうので、そういうボルト像がライバルたちの中にでき上がってしまった。虚像ならぬ巨像ですね。ボルト自身も自分が王者だと心の底から思っているし、不調のときはコーチの言うことを信じ切って復調しています。プレッシャーを感じることがないのだと思います」
それは見る側も同様だろう。ボルトが負けるシーンは「想像できない」と朝原さんも言う。
「一番不気味なのはブレイクですが、ボルト本人は気にしていないんじゃないでしょうか。僕らの考えが及ばない領域に達している選手です。失敗しても9秒8台が出せる。ボルトが何かを失敗したら勝てない、とは誰も思っていません」
冒頭で紹介した3つの強さのうち、どれが一番すごいかを朝原さんに聞いてみたが、「全部ですよね」という答え。
「過去にもすごいと言われた世界記録はありましたが、ボルトの記録は誰も到達できない高さです。勝ち続けることも、ここまでの長さは過去に例がないと思います。僕らの頃にモーリス・グリーン(米国)が初めて9秒7台(9秒79)を出しましたが、勝ち続けられたのは97年から01年まででした。スタート前にあんなパフォーマンスをする選手もいませんでしたね。グリーンは周りに対して威圧的な態度を意図的にとっていましたが、アトランタ五輪金メダルのドノバン・ベイリー(カナダ)も、バルセロナ五輪金メダルのリンフォード・クリスティー(英国)も、静かに集中する選手でした」
世界陸上前最後の大会は、ダイヤモンドリーグ・モナコ大会(7月21日)の9秒95(追い風0.7m)だったが、「最悪でも9秒8台にもってくる」と朝原さんは予測する。9秒8台後半なら他の選手も付け入る隙はあるのだが、それでも勝てなければボルトの存在自体が勝因ということになる。
「ボルトが負けるシーンは想像できない」
朝原さんは繰り返した。
「結果よりも、最後に見せる“さま”を伝えたい」と実況の初田アナ
ボルト最後の世界陸上を実況するのは、TBSの初田啓介アナウンサーである。
2008年北京五輪100m、翌09年の世界陸上ベルリン大会100mと、ボルトが世界新を出したレースを2年続けて実況。その後も世界陸上100mの実況を担当し続けて来た。
「準決勝までを見てボルトが頭抜けているとわかっていたときは、その一挙手一投足を伝えようとボルトを中心にレースを見ていました。テグのときもそういう感じでしたね」
テグの100mはボルトが、フライングで失格した唯一のレース。ピストルが鳴った次の瞬間に、初田アナは「ボルトがフライングをしたー」と、声のトーンを抑えながらも叫んでいた。間違って伝えたら放送事故になってしまうケース。断定するのは状況が確定してからの方が良かったのかもしれないが、そのくらい神経を集中してボルトを見ていた。
それに対して13年モスクワ大会、15年北京大会はボルトが、絶対的な本命とはいえなくなっていた。
「ガトリン(米国)、ドグラス(カナダ)、ブロメル(米国)、蘇炳添(中国)といった選手たちにも注意を払いながら話していました」
アナウンサーたちはスポーツ放送の実況に関して、言葉をあらかじめ用意しているのか、という質問をよく受ける。一般人からすると、あれだけの言葉を即座に思いつくことは不可能なのだ。
だが、初田アナから返ってきた言葉は、意外な内容だった。
「まったく考えていません。私も若い頃は色々と状況を想定して言葉を考えていました。でも、それは予想した枠の中の言葉でしかないんです。世界一流のパフォーマンスは、一アナウンサーの想像の枠に入るものではありません。ボルトが9秒58で走ることを計算した人はいたかもしれませんが、本当にそのタイムで走ってしまうボルトを予想した人はいなかったと思います。だから世界中の人たちが驚き、感動する。我々は想像するのではなく、現実に出てきたものをどう感じ、どう伝えるか。それが生で話す役目を担う、私たちの仕事なんです」
TBSアナウンサーたちは、実況のための資料作りを丁寧に行っている。
年次ベスト記録や過去の成績、エピソードなどを丹念に調べる。必要と感じれば、映像も見る。予断を持って臨むことはしないが、言葉を紡ぎ出すための基礎はしっかりと構築しておく。
心がけているのは、「音のある言葉と、音のない言葉をどう使い分けるか」ということ。伝えるべき内容が映像で視聴者に伝わるシーンでは、言葉は必要最低限にする。同じ考えから、解説者(今回は朝原宣治さん)の言葉やリアクションを伝えることを優先する。
ボルトは傑出した競技力はもちろん、観客やメディアと一緒に陸上競技を盛り上げる、これまでにいなかったタイプの選手。その最後の舞台は、ボルトという素材をありのままに生かす。「実況は刺身のつまでいい」という初田アナの信条そのままに話すつもりだ。
「結果として金メダルを取った、取らなかったということはありますが、あれだけの伝説を作った選手です。最後にどんな姿を見せたのか、を伝えることが大事だと思うんです。“走るさま”ですね。レースにどんな表情で臨み、レース後にどんな表情で、どんな言葉で話すのか。走るだけでなく、自分を見てくれる人たちをすごく大切にしてきた選手です。観客に、全世界の人たちに、そして自らに、どんな言葉を語るのか。ボルトの“さま”を余すことなく伝えたいと思っています」
主役には決してならないが、選手の存在を浮き立たせる実況の妙はある。ボルトを伝え続けて来た初田アナだからこそ、の実況にも少しだけ注目したい。
「メディアもボルトのための舞台装置」と感じた担当ディレクター
「ヘイ、TBS!」
田中順士ディレクターはボルトから、こう声をかけられる。さすがに名前までは呼んでくれないが、自分の顔と会社の名前が一致しているのは名誉なこと。そう感じながら取材をしている。
田中ディレクターがボルトを担当するようになったのは、テグ世界陸上の行われた2011年から。最初の取材が震災の2週間後で、「日本は大丈夫か」とボルトから言われたことが印象に残っているという。ジャマイカにはトータル8回、取材で訪れている。
最近では6月28日のワールドチャレンジミーティング・オストラヴァ大会(チェコ)を取材した。ボルトにとってシーズン2戦目の100m。6月10日のキングストンの大会は、地元向けのラストラン的な色合いが濃い大会だった。それに対してオストラヴァは、世界陸上ロンドンに向けて本格的に調子を上げていく大会、と位置づけられた。
ところがボルトは10秒06と、向かい風(0.3m)とはいえ期待を下回るタイムに終わった。それでもボルトに、焦りの色はなかった。レース翌日にホテルを後にするとき、「もう少しやせないとね」と田中ディレクターが声をかけると、ボルトが「大丈夫だよ。問題ない」と返し、グータッチをして別れた。
ボルトは信頼できる人間とわかれば、胸襟を開いて接してくれる。練習中も田中ディレクターの顔を見つけると、カメラに向かってアクションをすることも多かった。こうしたメディアとのやりとりも、自身を盛り上げるための舞台装置。田中ディレクターは「ショーの一部だと、ボルトは考えているはず」と言う。
そしてボルトが「大丈夫」と言ったら、本当に大丈夫なのである。
12年はジャマイカ選手権で2種目ともヨハン・ブレイク(ジャマイカ)に敗れ、13年のダイヤモンドリーグ・ローマ大会はガトリンに敗れたが、どちらの年も五輪&世界陸上はボルトが勝った。15年、16年もシーズンイン前に故障があったが、夏の五輪&世界陸上ではシーズンベストで優勝している。
7月21日のダイヤモンドリーグ・モナコ大会で9秒95(追い風0.7m)まで調子を上げたボルトは、ロンドン入りした後の会見でも「(不安説を)言うのは君(記者)たちだけだろう」と一蹴した。そうメディアの前で宣言することも、ボルトにとっては力を得ることなのだ。
最後の舞台で観衆をどう惹き寄せるか。
スタート前に、いつも以上に色々なポーズを取って、観客を楽しませると予測できるが、自身の最後を味わうために人さし指を口に当てて「今日は静かにして」ポーズをする可能性もある。
フィニッシュ後は、最後のファンサービスとばかりに観衆と喜びを分かち合うのだろう。だが、リオ五輪でも少し、以前のボルトとは表情が違っていた。トラックにひざまずいて感謝のキスをする仕草を見せたし、ウィニングウォークも何かを噛みしめるように歩いていた。
ボルトが初めて、レース後にしんみりした表情を見せる可能性もある。
寺田 辰朗(てらだ たつお)プロフィール
陸上競技専門のフリーライター。
陸上競技マガジン編集部に12年4カ月勤務後に独立。
専門誌出身の特徴を生かし、陸上競技の詳しい情報を紹介することをライフワークとする。
一見、数字の羅列に見えるデータから、その中に潜む人間ドラマを見つけだすことは当代随一。
地道な資料整理など、泥臭い仕事が自身のバックボーンだと言う。
選手、指導者たちからの信頼も厚い。AJPS(日本スポーツプレス協会)会員。
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