8月4日開幕

寺田的世陸別視点

第7回2017.08.01

展望コラム(7) ケンブリッジ飛鳥
学生時代に苦しんだ故障を克服。
2度目の世界へのチャレンジは、ファイナリストへの挑戦

大会初日、2日目と行われる男子100mに、日本からはサニブラウン・アブデル・ハキーム(東京陸協)、多田修平(関学大3年)、ケンブリッジ飛鳥(ナイキ)の3人が出場する。代表入りした年齢を見るとサニブラウンが一番早く、2年前の北京世界陸上200mに出場したときは高校2年生だった。多田は大学3年の今回が初代表。ケンブリッジが一番遅く、昨年のリオ五輪出場は大学卒業1年目だった。
そのリオ五輪でケンブリッジは、4×100mRでウサイン・ボルト(ジャマイカ)と競り合って銀メダルを獲得し、日本中を熱狂させた。100mは準決勝を通過できなかったが、9秒台を望める力をつけている。
学生時代は故障を繰り返していたケンブリッジ。故障という障壁を克服したとき世界への道が見えてきた。

卒業1年目でブレイクできた理由は?

きっかけになったのは大学4年時、2015年9月の日本インカレ(日本学生対校選手権)だった。ケンブリッジは8位(10秒78)と大敗したことで、競技への取り組みをもう一度見つめ直した。
ケンブリッジを指導し始めて6シーズン目となる渕野辰雄(日大短距離コーチ)は65歳。過去には100m元日本記録保持者の井上悟や、400mシドニー五輪代表の山村貴彦らを育てたベテラン指導者だが、ケンブリッジの最後のインカレの結果を厳しく叱責した。
「インカレは4年生が頑張らないといけない大会です。そこで結果を出せなかったのは、リハビリトレーニングをしっかりやっていなかったからでした。『オマエ、こんなことを繰り返すなら、陸上をやめた方がいいぞ』とまで言ったと思います。それまではどんなときも弱音を吐かなかった飛鳥が、初めて涙を流しましたね。そこで彼は変わることができた。地味で辛いリハビリトレーニングを必死でやり、それが昨年の結果につながりました」
走るのを我慢して、体幹トレーニングや補強をこれまで以上に繰り返した。ケアに関しても本人が「今まで身体の手入れに関しては甘さがあった」と、振り返るレベルまで意識が高くなった。
ケンブリッジは高校時代、インターハイは100m3位、200m2位と優勝はできなかったものの、代表に成長できる選手だと多くの指導者が注目していた。実際、日大1年時には世界ジュニア(現U20世界陸上)200mに出場。2年時の東アジア大会200mは、飯塚翔太(ミズノ。当時中大)を破って優勝した。

だが、つねにケガと隣り合わせで競技生活を送っていた。
そのほとんどは左大腿の肉離れで、1年時秋の日本ジュニア200mは途中棄権。3年時5月の関東インカレは100mで2位、10秒21の自己新(当時)と快走したが、4×100mRは全力疾走ができなかった。
軽度だが、背骨がS字に曲がっている脊椎側彎症もあり、股関節周りの筋力の左右差も大きかった。2年の冬にジャマイカでの練習を経て、筋力トレーニングにも積極的に取り組み始めた。体重は入学時の66kgから、4年時には70kg台後半に増えていたが、タイムが上がれば体への負担も大きくなる。すぐには故障の多さを克服できなかった。

4年時(2015年)4月の織田記念100mは桐生祥秀(東洋大)を破って優勝したが、脚への不安があったため世界リレー選手権代表を辞退。5月の関東インカレに優勝し、6月の日本選手権でも4位。ユニバーシアード代表を打診されたが、脚の状態を考えると辞退せざるを得なかった。
9月の日本インカレは最後のインカレ。ケンブリッジの対校戦への思いは強く、トレーニングにも人一倍熱心に取り組んだ。それでもまたケガを再発させてしまい、お世話になってきた日大や渕野コーチに恩返しができなかった。自身の憤りが涙になったのだろう。
周囲への感謝の気持ちを示すには、卒業後に頑張るしかない。その気持ちでリハビリトレーニングに取り組んだことが、昨年の日本選手権優勝やリオ五輪の活躍につながった。

走ることを楽しむ

ケガが多くてもケンブリッジは、走ることを楽しむ気持ちを忘れなかった。
中学3年時に北京五輪のウサイン・ボルト(ジャマイカ)を、テレビで見たことが大きかった。それから毎晩のようにオリンピックを走る自分や、さらにはボルトと一緒に走るシーンをイメージするようになったという。その成果なのか、どんな大きな試合でも「緊張したことはない」と言う。自分より強い選手に挑戦することや、自分がどんな走りができるかを考えると、「ワクワクする」気持ちの方が大きかった。
身体が成長するにつれ、走りもどんどん良くなった。肩の位置がつり上がることがなくなり、以前は「後ろに巻き上がっていた」(渕野コーチ)脚が、素早く引きつけられるように改善された。筋力が上がったことと、「地面をフワっとつかみにいく」(同コーチ)動きができるようになったことで、短い接地時間で上方向ではなく、前方向に大きく進む走りができるようになった。

上半身の動きと下半身の動きが合うようになったことも大きい。ケガの不安もあって大学4年時までは、ケンブリッジ自身も走りがしっくり感じられなかった。それが昨年の東日本実業団で10秒10を出した頃から、「上半身と下半身の動きがすごく噛み合って、推進力につながっている」と手応えを得られるようになった。
 後半のリラックスした走りも大きな武器だ。短距離選手は力むと顔や首が歪んでしまったり、上体が余分に揺れたりしてしまうが、ケンブリッジはそれがない。「彼の持ち味です。コンセントレーションを取り続けられる」(渕野コーチ)。高校時代のリレーではすでにその走りができていたが、成長とともに安定してきた。
ケンブリッジの競技を楽しむメンタルや、フィジカル面の充実、技術的な進歩が総合されて、後半の走りは世界でも通用するレベルに達した。

9秒台も期待できた日本選手権

大舞台でも緊張しないケンブリッジだが、昨年のリオ五輪準決勝はジャスティン・ガトリン(米国)の右隣のレーンで「硬くなった」(本人)と言い、渕野コーチの目にも「リズムが完全に狂った」と映った(ガトリン9秒94、ケンブリッジ10秒17)。
「いつものように、『本気のガトリンと走れる!』というワクワクがあれば、もっとついて行けたかもしれません」
今シーズン序盤が今ひとつ乗り切れなかったのは、前述した上半身と下半身の動きが噛み合わなかったからだ。

6月4日の布勢スプリントで10秒12(追い風1.9m)と標準記録はかろうじて破ったが、ケンブリッジは「まだ上半身と下半身の動きがズレている」と、厳しい表情を崩さなかった。
布勢スプリントの翌日には渕野コーチが動きをチェック。
「指先だけで振っていた」腕振りと、あといくつかの点を修正した。
その結果、3週間後の日本選手権ではズレを直すことに成功していた。
予選で10秒08。それも向かい風0.9mの条件で出し、普通に走れば9秒台を望める状態になった。だが、調子の良さが力みになったのか、準決勝は10秒10(向かい風0.2m)とタイムを落とした。
右のハムストリングに軽い痙攣も出たが、その時点では特に問題とは思えなかった。決勝前のウォーミングアップでも、渕野コーチは「9秒9台後半から10秒0台前半は行けそう」と期待した。ケンブリッジもそう感じて力が入ったのか、「(アップの)最後の1本をバーンと行き過ぎた」(渕野コーチ)ことが裏目に出て、決勝はスタート前から痙攣が出そうだったという。
多田、サニブラウン、桐生に先行されても、ケンブリッジはおそるおそる追い上げるような走りしかできず、桐生をかわして3位に入るのがやっとだった。

日本選手権後は走る練習が1週間ほどできなかったが、そこでもう一度、初心に返ってリハビリトレーニングに専念した。それがプラスに働けば、日本選手権の予選以上の走りも期待できる。
世界陸上ロンドンの暫定エントリーも公表された。シーズンベストが9秒台の選手は11人。2年前の北京世界陸上は9秒99、リオ五輪は10秒01が準決勝通過ラインになった。自己記録が10秒08の選手が決勝の8人に入るのは、簡単なことではない。
とはいえ、もう一度言うが日本選手権予選の10秒08は向かい風0.9mで、適度な追い風なら9秒9台は出ていた計算が成り立つ。国際大会でも緊張せず、変な力みが出なければ後半の強さは世界トップレベルである。
ケンブリッジが準決勝を通過したら、渕野コーチは「頑張れとか、1つでも順位を上げよう、とか野暮なことは言わない」つもりだ。とっておきの台詞を準備しているという。
8月5日の男子100m準決勝のあと、ベテランコーチのひと言が、ケンブリッジを世界への戦いに導く。

寺田 辰朗(てらだ たつお)プロフィール

陸上競技専門のフリーライター。
陸上競技マガジン編集部に12年4カ月勤務後に独立。
専門誌出身の特徴を生かし、陸上競技の詳しい情報を紹介することをライフワークとする。
一見、数字の羅列に見えるデータから、その中に潜む人間ドラマを見つけだすことは当代随一。
地道な資料整理など、泥臭い仕事が自身のバックボーンだと言う。
選手、指導者たちからの信頼も厚い。AJPS(日本スポーツプレス協会)会員。

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