寺田的世陸別視点
惜しいところで世界まで突き抜けられなかった男子100m。
しかし、確実に根付き始めた日本の“スプリント文化”
大会2日目の男子100m準決勝はサニブラウン・アブデル・ハキーム(東京陸協)に、日本選手初の決勝進出の期待がかかった。
100mは最もプリミティブ(根源的)な種目。全世界のどの地域でも強化が可能で、選手層の厚さは最も厚い競技と言っていい。1983年にスタートした世界陸上で、日本選手の決勝進出は過去になく、五輪を含めても1932年ロス五輪の吉岡隆徳が最後である。
しかしサニブラウンはスタート直後にバランスを崩し、10秒28(向かい風0.2m)で7位に終わった。ケンブリッジ飛鳥(ナイキ)も1組6位(10秒25・向かい風0.5m)、多田修平(関学大)も3組5位(10秒26・追い風0.4m)で、日本の100mは今大会も、世界のファイナルに突き抜けられなかった。
だが、代表3選手全員が準決勝に進んだのは史上初めてのこと。そのうち2人は、昨年のリオ五輪4×100mR銀メダルメンバーに入っていなかった選手である。その背景をTBS解説者の朝原宣治さんは「日本のスプリント文化が少しずつ高まっていること」だと指摘。日本短距離界が積み上げてきた実績が、今回の3人準決勝進出につながっているという。
スタートでバランスを崩したサニブラウン
準決勝を終えて取材陣の前に現れたサニブラウンは、いつもの快活さで話し始めた。
「やらかしましたね。盛大にやらかしました。(バランスを崩したのは)3、4歩目くらいでした」
予選(10秒05・向かい風0.6m)のサニブラウンの走りを見て、決勝進出の可能性は高いと思われた。スタートでしっかり勢いに乗り、中盤でグンと前に出た。サニブラウンが今季躍進した最大の要因がスタートの改善で、予選もそこが上手く行ったように見えた。
だが、サニブラウン陣営は改善の余地があると考えた。
「予選は背中がふくれ上がってから脚が動いたスタートだったので、そこを修正しようとコーチと話し合いました。準決勝は良い角度では出られたと思いますが、脚がついてこなくてつまずく形になってしまいました。脚が上がってきたら、そのままどんどん行けたと思います」
この変更は大きな冒険というほどではなく、大会の中で調整できるレベルだったのだろう。
走り全体ではサニブラウンも十分な手応えを感じていた。
「本当に(決勝に)行ける気、しかしませんでした。体が綺麗に動いて、(向かい風でも)自己記録タイで走れた。決勝に行って、下手をしたらメダルまで行ける、と思っていたので、悔しい、のひと言です」
何がスタートの失敗になったのか、特定するのは難しい。朝原さんは「意識できないところで、決勝に残るために色々なことを考えたり、力が入ってしまったところがあったのかもしれません」という見方も示した。
結論は、今後のサニブラウン陣営の分析を待つしかないが、日本選手に決勝の壁が立ちはだかる形になった。
リオと違ったケンブリッジの表情
リオ五輪4×100mR銀メダルのメンバーでは、ケンブリッジが唯一100mの代表となった。
決勝に最も近い選手という見方もあったが、リオ五輪と同じように準決勝を通過できなかった。
「昨日(予選)の走りを受けて、後半を修正しようとやってきましたが、修正しきれずに終わってしまいました。前半はそれなりに良い形でしたが、終盤は、思ったようにコントロールできませんでした。日本選手権に合わせて自己記録も出て、ある程度の手応えはありましたが、調子を上げることができず悔しいですね」
日本選手権の予選は、向かい風0.9mをついて10秒08の自己新。渕野辰雄コーチは「9秒台も出せる」と見たが、準決勝で右のハムストリングに違和感が出て、決勝も思い切って行けなかったところがあった。
その後1週間ほど走る練習ができなかった。ケンブリッジ本人は「問題なかった。日本選手権の状態まで上げられなかった」と言ったが、練習期間が足りなかったことは否定できない。
印象に残ったのはケンブリッジの悔しがり方の、リオ五輪との違いである。
リオはガトリン(米国)の隣で硬くなったことが原因だが、ダメだったものは仕方ない、という雰囲気で引き揚げてきた。
それに対して今大会は、もう少し何とかできたはず、という悔しさが大きいように見えた。五輪&世界陸上初出場だったリオよりも、見ているところは明らかに上がっている。
もう1人の多田は準決勝を「最低限の目標」と設定し、その通りに予選を突破して見せた。
だが多田は、今季初めて代表レベルに成長した選手。6月の日本学生個人選手権で10秒08を出したといっても、記録を出しやすい環境の国内大会だからできた、ということもできる。代表にはなれても、外国勢とのレースでは力を出し切れず、出るだけで終わることが多いケースだった。
実際、「中盤にボルト選手たちが見えて、力が入ってしまいました。緊張もあって、集中しきれなかった部分もありました」と、初の大舞台に緊張することは避けられなかった。ところが多田は予選をしっかりと突破。ボルトだけではなく、9秒91のダサオル(英国)、9秒86のビコ(フランス)という格上選手を相手に臆せず戦った。
第6回コラムで指摘したように、上のレベルの試合に初めて出場しても、その大会レベルのパフォーマンスができる選手であることを証明した。それができたのも、初出場だから頑張れる範囲で、という考え方ではなく、「絶対に準決勝に行く」という気持ちを強く持ち続けてきたからだろう。
多田の目はすでに、3年先を見据えている。
「世界陸上を2本走って、筋力を増やす必要性を感じました。筋力を増やして戦える力を付けたい」
多田の本気度は、ここまでの歩みが実証している。
スプリント文化を成熟させる
男子100mで日本選手3人が準決勝に進んだのは、世界陸上史上初めて。過去には井上悟、朝原宣治、塚原直貴の3人しかいなかったセミファイナリストが、一気に倍増した。
選手個々が力をつけたことはもちろん、日本のスプリント界全体に、五輪&世界陸上で結果を残して当然、という雰囲気ができている。準決勝を走った経験のあるサニブラウンやケンブリッジは、決勝に進んで当然と考えていたし、国際大会の実績がない多田も、予選突破は当たり前という意識で臨んでいた。
その状況を朝原さんは、「日本のスプリント文化が少しずつ上がっているから」と説明した。
「リオ五輪の4×100mR銀メダルや、山縣(亮太・セイコー)君のあと40cm(0.04秒差)で決勝進出という走りが、自分たちもやれる、というマインドセットになった。桐生君の10秒01(13年と16年)も、今の選手たちには影響が大きかったと思う。さかのぼれば、我々の銅メダル(08年北京五輪4×100mR3位)も今につながっている」
そういった雰囲気ができているからこそ、世界に突き抜けていくきっかけが欲しかった。自身も何度か決勝の壁に跳ね返された朝原さんは、「サニブラウン君なら決勝を壁とせず、一気に行ける選手だと思って見ていたのですが、大失敗でしたね」と無念の表情で語った。
だが、200mがまだある。
サニブラウンに加えて飯塚翔太(ミズノ)も、決勝進出を目標に出場する。
サニブラウンの100m予選の走りは、飯塚も“やれる”という気持ちにさせているはずだ。選手個々の走りが短距離界全体の意識の高まりにつながり、スプリント文化が成熟していけば、2年後のドーハ世界陸上、3年後の東京五輪での100m決勝進出につなげることもできる。
寺田 辰朗(てらだ たつお)プロフィール
陸上競技専門のフリーライター。
陸上競技マガジン編集部に12年4カ月勤務後に独立。
専門誌出身の特徴を生かし、陸上競技の詳しい情報を紹介することをライフワークとする。
一見、数字の羅列に見えるデータから、その中に潜む人間ドラマを見つけだすことは当代随一。
地道な資料整理など、泥臭い仕事が自身のバックボーンだと言う。
選手、指導者たちからの信頼も厚い。AJPS(日本スポーツプレス協会)会員。
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