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嵐山光三郎　『悪党芭蕉』　新潮社　１５７５円

2006年05月18日

今日の担当は書評家の岡崎武志さんです。、

嵐山光三郎　『悪党芭蕉』
新潮社　１５７５円

松尾芭蕉の名前を知らない人はいないでしょう。ある意味、日本で一番有名な詩人かもしれない。「古池や蛙とびこむ水の音」「閑かさや岩にしみいる蝉の声」「松嶋やああ松嶋や松嶋や」と、誰でも代表的な句が口をついて出てくると思います。ぼくはとくに芭蕉に興味があるわけでもないんですが、このタイトル『悪党芭蕉』と、著者が嵐山光三郎さんなので、なにかやってくれるに違いないと思って手にとりました。そして、やっぱりおもしろかったですねえ。

★芭蕉については「俳聖」などと呼ばれています。俳句の聖人、ひじり、ですね。崇めたてまつって、批判の余地がない。「奥のほそ道」は、もっともよく読まれている古典の一つで、芭蕉の足跡は観光地化されていて、あちこちに句碑や芭蕉像があって、芭蕉まんじゅうや芭蕉そばがお土産物屋で売られている。ちょっと調べたら、その足跡を訪ねる「奥のほそ道」ツアーという、深川から始まって、ゴールの大垣まで、十八回に分けて、二年ごしで歩くという旅行会社の企画まである。そんな芭蕉を「神格化」する風潮を、嵐山さんはこの本で否定する。それでは芭蕉の本質が見えない。「芭蕉はじつは悪党だ」という視点からの芭蕉論です。これがなかなかおもしろいんです。

★まず、例えば芭蕉の多くの弟子たち。芭蕉の門下で「蕉門」といいますが、その弟子たちは裏切り者、斬殺者、獄中に入った者などスキャンダルまみれ、だという。しかも、芭蕉はどうやら、そんな「ちょい悪おやじ」の弟子を愛した。しかも逸材だとほめる。芭蕉がほめた逸材に限って犯罪者となる、と嵐山さんはこの本で書いている。意外でしょう？

★例えば凡兆という弟子は、ちゃんとした理由はわからないが入獄しているし、米の空売りで流罪になった杜国は、のちに『笈の小文』にまとめられる旅のお供に連れていっている。犯罪者をお供に選ぶのだからいい度胸です。どうも「危険人物に魅かれた」らしい。路通という弟子など、金銭にだらしなく、芭蕉門下きっての嫌われものですが、なぜか芭蕉は可愛がった。「奥のほそ道」の同行者も、最初は路通のはずだったがあんまり弟子たちが嫌ったので、曾良になったと嵐山さんは書いています。このあたりで、芭蕉のイメージがかなり違ってきますよね。

★嵐山さん自身が俳句をやり、この本でも芭蕉の句についてかなり大胆な解釈を試みている。俳句にくわしくなくても、楽しめる書き方がしてある。あまりに有名な句「古池や蛙飛び込む水の音」。これは貞享３年に、「蛙合（かわずあわせ）」という、芭蕉が弟子とともに蛙ばかりを詠んだ句４０首を、左右で二句ずつ優劣を競った文芸形式のとき最初に出された句なんですが、この前年、つまり貞享２年に、例の将軍綱吉による「生類憐れみの令」が公布される。犬はもちろん、魚や虫まで大事にしろ、という法律です。そのとき「蛙飛び込む」という句を作ったのは、芭蕉の戦略だ、と嵐山さんは見るわけです。

★「力を抜くと見せて、凄い球を投げた」、いわば「魔球だ」と嵐山さんはいう。ふつう、蛙を歌や句に詠むときは、その「声」を表現するのであって、「水に飛び込む」姿を詠むのは「ルール違反」だそうですね。しかも、芭蕉がじっさいに見た古池は、ゴミが浮いて濁った汚い池だったそうです。まあ、逆に、そこに芭蕉の凄さがある。「悪党」というのは悪口ではなくて、嵐山さんにとっては「ほめ言葉」であることが、この本を読むうちにだんだんわかってくる。少なくとも「俳聖」と呼んで崇め奉るより、だんぜん面白い。

★江戸期の俳句のこともかなりくわしく調べて書かれてありまして、勉強になります。たとえば「俳諧賭博」といって、俳句を読むことをギャンブルにしていたらしい。まあ例えば、五七五の上五句を隠してあてる、といった賭けをする。当たった者は商品がもらえる。これが流行って、夢中になって破産する者が出てきて、幕府が取り締まる。しかし嵐山さんは、文芸がギャンブルの対象になったのは、世界じゅう見渡しても、この俳句賭博だけだ、「むしろ文芸国家として自慢すべきことでもある」なんて言ってる。正直言って、芭蕉とはこんなにおもしろい人だったのか、とこの本を読んで初めて知りました。

川端裕人　『銀河のワールドカップ』　集英社　1995円

2006年05月11日

今日の担当は本の雑誌社・顧問の目黒考二さん
（＝文芸評論家の北上次郎さん）です。

川端裕人　『銀河のワールドカップ』
集英社　1995円

★ワールドカップも来月に控え、おすすめのサッカー小説。おんぼろの少年サッカーチームが、あれよあれよという間に勝ち進んでいくという王道スポーツ小説ながら、その後の展開がユニーク。王道でありながら異色のサッカー小説になっている。

★かつてＪリーグのエースストライカーとして活躍した花島勝は、引退後、少年サッカーチームの指導者になるが、ある誤解から指導者失格の烙印を押され職を失う。うらぶれた花島が、酒に酔って公園をブラブラしていると、小学５年生の少年たちがサッカーをしている場面に出くわす。少年たちのなかには天才的な才能を持つ三つ子もいて、花島を驚かせる。少年たちと意気投合した花島は、このサッカーチームのコーチを引き受けることにする。

★チームの少年たちは、それぞれ実に個性的。キャラクターが立っている。キャプテンのツバサの取り得は「声が大きいこと」。性格はすこぶる良いのだが、サッカーの技術はイマイチで、本人もじぶんの実力はよくわかっている。しかし、声が大きいことが、彼をしてキャプテンたらしめている。ツバサは拡声器になって花島の作戦（だんご、第四、ビルド、、、）をみんなに伝えるという役目。一方、天才肌の三つ子たちも一癖も二癖もある連中。やたらと熱いのもいれば､普通のシュートでゴールを決めてもつまらない、相手にボールを当ててオウンゴールを狙うことに燃えているヒネクレ者も。

★チームには女の子もいる。天才少女と言われながら、小学５年生という微妙な年齢になり、開き始めた男女の体力差に悩む少女と、その友だちの女の子。友だちの方は、やや太り気味でダイエットのために参加。もちろんサッカーの技術はゼロ。そんな寄せ集めのチームが都大会に出場する。コーチの花島は、子ども達を型にはめることなく、良いところを伸ばしていく。

★寄せ集めチームが、挫折を経験したコーチの指導のもとで決勝戦まで勝ち進んでいくというのは、スポーツ小説の王道パターン。少年たちの成長と挫折した大人の復活。コーチが以前指導者の座を追われた事情や、途中からチームに参加するもう一人の少年が抱える家庭の事情など、小さなドラマの積み重ねの常套的だが実によく書けている。やはりスポーツ小説は王道を外さないものが良い。

★しかし、本書がユニークなのはここから。普通ならクライマックスになるはずの地区大会の決勝戦が、全体の２／３のあたりで書かれてしまう。あれ？この後はどうするんだろう？と思うと、最後のクライマックスの舞台はなんと練習試合。といっても相手がとんでもない。なんとあの世界最強のチーム！

★この作品でわかるのは、サッカーはあらゆるスポーツのなかで最も実力差が結果に出にくいスポーツであるということ。１００対５０の実力差があっても点差はそんなに開かない。ルール上の様々な制約によって、大番狂わせが生じ得る。それがサッカーの魅力であり、だからこそ世界中の様々な国が戦うことができる。小学生が世界最強のチームに挑むという奇想天外な展開に込められているのは、そんなモチーフだろう。

★三つ子の父親が数学教師で、サッカーの戦術を研究するシミュレートするソフトを作ってきたりするディテールも面白い。他にも、王道サッカーの小説の傑作としては野沢尚の『龍時』(文春文庫)などもあるが、この『銀河のワールドカップ』はサッカーに馴染みのない人にも楽しめる。ワールドカップの前にぜひ。

堀井憲一郎　『若者殺しの時代』　講談社現代新書　７３５円

2006年05月04日

今日の担当は書評家の岡崎武志さんです。

堀井憲一郎　『若者殺しの時代』
講談社現代新書　７３５円

★ちょっと物騒なタイトルですが、中身はギャグを交ぜながらの軽妙な文体で、気軽に楽しく読める本です。著者は「週刊文春」に「ホリイのずんずん調査」という連載を、もうずいぶん長く続けているコラムニストで、１９５８年生まれ。私と同世代で落語好きということもあり、親近感を持っている書き手です。

★この本に書かれていることは、まえがきによると、昭和の終わりごろまで、つまり１９８０年代までは、「若者であることが得な時代」が続いていた、ところが、ある時期を境にずっと現在にいたるまで「若者であることは別に得ではない時代」になったのではないか、というんです。つまり「若者殺し」ですね。その境目になった８０年代にいったい、日本で何があったか。さまざまな若者文化や風俗、社会現象を独自の調査結果をもとにして解き明かしたのがこの本です。

★まず第一章は「１９８９年の一杯のかけそば」です。ありましたねえ、「一杯のかけそば」！　たった１７年前のことなのに、戦後の焼跡で起こった話のように遠い気がしますが。栗良平という作家が書いた絵本で、大晦日の晩に貧しい親子三人が、そば屋で一杯のかけそばを注文して分けて食べた。それをやさしいそば屋が暖かく見守った。あくる年の大晦日にまた、という感動の物語です。これが週刊誌やワイドショーで取り上げられ、これで泣かなきゃ人間じゃない、という空気が生まれ、国会でも取り上げられ大ブームとなります。映画にもなりました。この話が流行った１９８９年はバブルの頂点です。堀井さんは、その象徴を「一杯のかけそば」に見る。つまり、バブルは金持ちが浮かれたというのではなく、「貧乏人が無理して必死で遊んでいた」と。身の丈にあってないものだから、ピークがわからず、誰も消費を止められなかった。そしてバブルが崩壊し、停滞の９０年代を迎える。

★その前、８０年代にいろんなことがあった。いま若者世代にいる人にとっては、いまあることはずっと前からそうだったと思っているかもしれないが、そうではなかった。例えば、クリスマスに恋人同士がフランス料理を食べ、シティホテルに泊まるという現象は、８０年代から始まった。それを著者は女性雑誌の記事を調べて証明する。１９８３年の１２月に出た「アンアン」で「クリスマス特集」を組み、「クリスマスの朝はルームサービスで」というページを作る。これでそれまで家族で、仲間で祝う「クリスマス」が、恋人たちのものになった。著者は言います「そしてそれは同時に、若者から金をまきあげようと、日本の社会が動きだす時期でもある」と。バレンタインデーの時期に「義理チョコ」が商品として売られるのが１９８２年。このころから、若者が資本回収の道具としてかまわれて、放っておいてもらえなくなる、というのが著者の見方。それを「若者殺し」と呼ぶわけです。

★ディズニーランドへ大晦日に行って年を越すというイベント、これも８３年頃一部の若者のあいだに広まり、いまや入場券は事前の申し込み制で抽選、だそうです。テレビではホームドラマが衰退し、かわってトレンディドラマの全盛となるのも８０年代。そしてこれらは、すべてカップルのため、というより、女の子のためだった。「８０年代を通して、つねに女の子の希望が消費経済を誘導していった」のだと言います。なるほどなあ、と思います。

★それから、この本でぼくが面白かったのは、携帯電話の出現を論じた章です。９０年代に入って社会はダイナミズムを失い停滞していきますが、それと携帯電話が普及していく時期は重なっている。著者は、トレンディドラマの中で、誰が一番最初に携帯電話を使ったかをビデオで調査しますが、これによると最初に使ったのは石田純一で１９８９年。ただし、車に取り付けた軍用みたいな巨大な電話機。これは９１年あたりまで登場する。一般にみんなが持つようになり、ドラマのなかにも普通に使われるのは９７年ぐらい。著者はアルバイト学生を使って、過去のドラマをチェックさせますが、石田純一の使う巨大な電話を、若者は携帯電話だとは認識できなかった。「彼らにとって１９９１年の日本は別の国のようだった」。そこで携帯電話の出現が若者たちに与えた影響の話になるのですが、昔の家に一台しか電話がなかった時代、彼女の家に電話をすると親が出た。そこで「おとなに嫌われない話法を会得した」。つながらないときはあきらめた。肉体感覚を伴い、「電話はもともと、ひとつの可能性でしかなかった」という。いまは違う。彼女にかける「携帯電話は、もっと根本的な緊張を強いてくる」「身も蓋もない。相手がでなければ、拒否されている可能性が高いのだ。電話をかけたたけで、そんなことまで知らされてはたまらない」。携帯電話はたしかに便利で、いまさらなかった時代に後戻りはできない。しかし、便利になったことで若者が失ったものは大きいのではないか、と著者は考える。

★大人も若者を見て「若いやつらはいいなあ」と単純に思い込む。しかし、彼らのなかの「内実のしんどい部分を想像していない」。「若者殺し」という表現で、若者が得した時代から、損をする時代に転換していったことを、著者は具体的な例を使ってわかりやすく伝えています。じつは著者と同世代の人間として、いまの若者をうらやましい、とはぼくも思えないんですね。良くて現状維持の現在、とくに若い人たちが、自分たちの主権を取り戻すために、ぜひとも読んでほしい一冊でした。

小路幸也　『東京バンドワゴン』　集英社　１８９０円

2006年04月27日

今日の担当は本の雑誌社・顧問の目黒考二さん
（＝文芸評論家の北上次郎さん）です。

小路幸也　『東京バンドワゴン』
集英社　１８９０円

★『空を見上げる古い歌を口ずさむ』でメフィスト賞（舞城王太郎や西尾維新ら今をときめく個性派作家を輩出）を受賞した小路幸也の連作集。帯には「明治から続く下町古書店〈東京バンドワゴン〉。ちょっとおかしな四世代ワケあり大家族のラブ＆ピース小説」と。

★下町の一角、築七十年にもなる今にも崩れそうな日本家屋の古本屋が〈東京バンドワゴン〉。古本屋の片隅で小さなカフェも併設。取り仕切るのは」３代目の店主、堀田勘一。７９歳ながらかくしゃくとしてまだまだ現役。６０歳になる一人息子の我南人（がなと）は、伝説のロッカーで「LOVEだねぇ」が口ぐせで、根無し草のようにフラフラとしていて、しょっちゅう行方不明。いざとなると意外な活躍をするあたりはちょっと「寅さん」のよう。その代わりに店を手伝っているのは、我南人の長女、藍子（35歳の美人、シングル・マザー）と長男紺の妻、亜美（34歳、才色兼備の元客室乗務員）。ちなみに紺は元大学講師で、フリーライターをしながら店を手伝う落ち着いた男。さらに紺の我南人が愛人に産ませた青（26歳の添乗員。プレイボーイの長身美男子で女性トラブルには事欠かない）。さらに藍子の娘の花陽、紺と亜美の息子、研人。これで８人家族。語り手は、2年前に亡くなり幽霊になって堀田家を見守る勘一の妻、サチ。

★つまり「大家族小説」。春夏秋冬4編からなる連作だが、毎回些細な事件が起きる。「春」では、百科事典が毎朝２冊ずつ増えて、夕方にはなくなる。なぜか？「夏」では、猫の首輪に切り取られた文庫本の数ページが結び付けれていた。それが意味するものは？「秋」では、近所の老人ホームから老婆が自殺した女流作家の古本を持って失踪してしまう。その本には何が書かれていた？「冬」では、「冬に結婚するべからず」という堀田家の新たな家訓が見つかる。そこに潜む思惑とは？そんな日常の謎を大家族が解決していく。

★家族のキャラクターが抜群に魅力的。それぞれが勝手にしゃべりまくる大家族の食事風景が実に楽しい。家族以外の脇役たちのキャラクターも魅力的。近所に住むイギリス人のマードック（日本画を専門とする画家）が、藍子に惚れているのだが、すぐに頬を赤らめるようなシャイな外国人だったり、青の婚約者だと名乗る女性が気が強くて大暴れするのだが、実は働き者で文学好きの美人で、９人目の家族として堀田家に馴染んでしまったり、「ここの本をまとめて全部買ってやる」と豪語した若きＩＴ社長（無類の古書好き）が、勘一に一喝されて、毎回１冊ずつ読書感想文を提出しないと本を売ってもらえなかったり、そういうドラマもうまい。往年の黄金期のホームドラマを思わせる雰囲気もあるが、著者自身、扉に「あの頃、たくさんの涙と笑いをお茶の間に届けてくれたテレビドラマへ」と。

★各編で語られる小さな日常の謎とは別に、４編を貫く大きな謎は、未婚の母となった藍子の相手＝花陽の父親は誰なのか？と、青の母親は誰なのか？ということ。この父と母をめぐる謎が連作を通じ重要なモチーフになっている。それぞれが事情を抱えた「ワケあり」大家族だが、とにかく楽しくて後味が良い。もっともっと読みたいと思わせる家族小説の傑作！

手嶋龍一　『ウルトラ・ダラー』　新潮社　１５７５円

2006年04月20日

今日の担当は書評家の岡崎武志さんです。

手嶋龍一　『ウルトラ・ダラー』
新潮社　１５７５円

★すでに２０万部を突破し、あちこちで書評にも取り上げられ、相当話題になっている小説です。『ウルトラ・ダラー』とは精巧に作られた偽百ドル札のことで、作ったのは北朝鮮という設定です。というより、この小説が書かれてから、北朝鮮発の偽ドル札がニュースになりました。というわけで、現実を予言した小説というわけです。

★また、著者がもとＮＨＫの記者でワシントン支局長を務めた手嶋龍一という人で、名前を聞いたことがなくても、顔を見ればみなさんおわかりと思う。というのも、アメリカで起きた９・１１同時多発テロのとき、１１日間連続でアメリカから中継放送をしたのが手嶋さんなんです。ぼくも毎晩、ＮＨＫのニュースを見てました。あ、もちろんＴＢＳもです。これで一躍、顔を知られた。また、ちょっと白塗りすれば時代劇のお殿さまに見える、茫洋とした大づくりの顔と、おっとりした口調が、同時多発テロの緊張感を和らげたんです。ぼくが覚えているのは、オサマ・ビン・ラディンを、オサマ・ビン・ラ～ディン氏と呼んでいたことです。

★さて、この小説。これまでノンフィクションは発表していましたが、手嶋さんにとって初の小説、しかも著名人とあって、ぼくらヘヴィな本読みは、悪い癖ですが、ちょっと警戒するんです。つまり、殿様のお道楽じゃないか、と。眉に唾をつけて読む、というんですか。ところが、ものの数ページ読むうちに、「おやおや、これは！」と偏見を改めることになる。じつに巧いんですね。

★巻頭は京都で浮世絵のオークションの会場です。写楽の「おしづ」という世紀の名品が競り台にかけられている。美術商に混じって栗色の髪のイギリス人が正座して坐っていて、彼はＢＢＣ、すなわち英国放送協会の特派員でスティーブンという。この小説の主人公です。このオークションの取材中なんですが、その絵を見て「ちがう。やはり、ちがう。おしづの眼が死んでいる」なんていうわけです。このスティーブン、日本語ペラペラの大の日本通で、世界的な浮世絵コレクターとして知られる家に生まれた男なんですね。ちょっと、キザですが……あ、これも元ＮＨＫのキャスターが書いたベストセラーのタイトルだった。その磯村さんですが、ワシントン支局長を務めたことがあって、手嶋さんの先輩なんですね。これは余談。そのスティーブン、篠笛を吹いて、小津映画の原節子のファンという変な外国人ですが、じつは、放送協会の特派員は表向きの顔で、本当の任務はイギリスの諜報員、つまりスパイ。００７みたいなもの。

★さて、この写楽を落札したのは、ハイテク長者の橋浦という男で、彼はこのあと物語に重要な役目でからんでくる。そんなとき、スティーブンの携帯にメールが入る。そこには、「ダブリンに新種の偽百ドル札『ウルトラ・ダラー』あらわる」とあった。これが物語の幕開けです。うまいもんですねえ。浮世絵と偽札、ハイテク長者とイギリスのスパイ。読者を引き付ける道具立てをよく知っている。これで、ほんとうに初めての小説かと、たちまち引き込まれました。

★さあ、このあと、時代はさかのぼって、昭和４３年東京下町の印刷工の突然の失踪事件がある。当事としては行方不明者の扱いですが、じつは「拉致」された。その２０年後に、マサチューセッツ州の製紙工場からドル紙幣用パルプ、スイスの機械メーカーから精巧な印刷機械、日本の美術印刷では世界的な技術を持つ印刷会社の社長が次々と消えていく。すべての震源地は北朝鮮、という設定です。

★この偽ドル札がウルトラ・ダラーと呼ばれるのは、ワシントン像の脇のすかしも、１００という超微細なマイクロ文字もすべて備えている。つまり「本物」といっしょ。北朝鮮は造幣局でドル札を刷っているようなもの。その金は何に使われるか？　ああ、言いたいが言えません。お分かりの方はお分かりでしょう。この偽ドル札の行方を求めて、スティーブンはアメリカ、ヨーロッパ、東アジアを駆け巡る。ここに女性内閣官房副長官、優秀な外交官などがからんでくる。著者は豊富な海外での記者経験で得た膨大な情報を、これらの魅力的な人物にからめながら、きわめてリアルに描いてゆきます。

★わたしが特に驚いたのは、女性のファッション、和洋中の食べ物、スティーブンが乗り回す、ちょっと古い型のＭＧＢなど、小説を彩る風俗の描写がじつに品がよく、確かなことです。失礼ながら、あの風貌と、オサマ・ビン・ラ～ディン氏からは想像できない。おそらく、フォーサイスやフリーマントルなど、現代のスパイ小説をかなり読み込んで、現代の風俗も研究しながらこの小説を書いたと思われます。「衝撃のドキュメンタリー・ノベル」とか、「これを小説だと言っているのは著者だけだ！」などと、帯には出版社の手によるコピーが躍っていますが、いや、ぼくは逆にきわめてよく書けた「小説」だと思いました。手嶋さんの名を隠せば、「有望な新人あらわる」というところです。映画化確実！　と予言しておきましょう。

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