2015年4月期連続ドラマ毎週日曜よる9時

日曜九時の時代番

番組の時代考証を担当されている山田順子先生に、各話のちょっと気になるシーンのアレコレをお話していただくコーナーです。

第十一回

『皇太子の御成婚』

前回の大正12年の関東大震災の翌年の大正13年1月26日に、皇太子殿下 (のちの昭和天皇) の御成婚の儀が行われました。当初の予定だと、12年の11月20日だったのが、大震災のために延期になっていたの。当日は宮城から東宮御所まで、自動車によるパレードが行われたの。そう、新太郎さんが登場したのは、その見物の群集の中だったの。

その後、どうやって宮城内に入ったのかは不明ですが、宮城の警備は門の外には近衛師団の兵、門の内側は皇宮警察官がいてかなり厳重だったはずなんですがね。

篤蔵さんの職場である大膳寮も、もちろんお祝いの饗宴のために、大奮闘よね。今回は明治宮殿内の豊明殿でおこなわれるんだけど、出席者がまたまた2,000人だったので、何度かに分けて開催したらしいわ。
ほんと、大変よね。

『箱膳と卓袱台』

ドラマの前半 (明治) と後半 (大正) で、室内の変化で著しいのは、ちゃぶ台が部屋の真ん中にどーんとあることかしら。ドラマ前半の食事のシーンで、福井は全部お膳でしたよね。これは箱膳と呼ばれるもので、正方形の箱の中に、家族それぞれの食器が入っていて、食事をする時に、蓋をひっくり返して、その上に食器を並べて使う膳で、家族それぞれの膳が決まっていたの。それが、後半の篤蔵くんのおうちでは、ちゃぶ台に変わっていたわね。なぜかというと、西洋から一つのテーブルを囲んで家族が食事をするという考え方が入ってきたというのが1つの理由。それから箱膳は、食べおわった食器を洗わずに、そのまま箱に入れて片付けるというだけだったの。ちゃんと洗うのは一週間に一回くらいね。以前は油を使わない食事が多かったからそれでもよかったんだけど、大正になると油を使う西洋料理を家庭でも食べるようになってきて、一週間も皿を洗わないわけにはいかないし、いちいち洗って箱に戻すのも面倒くさくなる…その2つの理由で西洋式に家族が一つのちゃぶ台を囲むようになったの。

ちゃぶ台のいいところは、足を畳んでどこかに立てかけておけば、そこに布団が敷けることね。西洋のテーブルだと足を畳めなくて、食事する場所はずっと食事しか出来ない。狭い日本の家にとっては、足を畳めるのは便利ですよね。ちゃぶ台が畳めなかったら、普及はしていかなかったと思うわよ。
足が畳めない食卓が桐塚先生のお家で食事しているシーンで登場するんだけど、あれは座卓と呼ばれていて、大きいテーブルでちゃぶ台みたいに畳めないの。お部屋の真ん中にどんと置かれてもお布団を敷く必要のない大きいお屋敷はそういうのを使っているわね。

『インフラの整備』

東京だと電気になっていたけど、ドラマの前半の福井だと行灯を使っていたわね。後半でやっと福井の武生にも電気がとおって、電灯が登場しているわ。ドラマが進むにつれて電灯の数がだんだん増えていくのよ。ガス灯だったものが電燈に変わる。街灯もガス灯が電灯になっていくわ。

篤蔵くんが東京に出てきた明治37年の前年の36年に日比谷公園が完成するんだけど、そのときの街灯は、ガス灯と電灯が半々だったそうよ。ガスがだんだん減って、電気にかわっていく時代ね。大正になるとほぼ電気になっているわ。そういう細かいところでも時代感を出すために美術さんと照明さんは気を配っていたわ。

調理用のガス台もでてくるわ。朝顔型のガス台だったわね。都会の狭い家には、かまどが段々邪魔になってくるのよね。薪をストックする場所も必要だし。そうするとガスでご飯を炊いて、ガスで料理をするようになってくるの… 篤蔵くんの家も、もちろんガスが通っていますし、水道もひねれば水がでる。井戸水が水道水になり、行灯が電灯になり、薪がガスになるっていう過渡期。けれど暖房はずっと火鉢なの。ドラマでは、わりと火鉢がたくさん出てきたと思わない? 火鉢に鉄瓶がのっていて、そこから湯気がでているシーンを象徴的に使っているわ。

『大正から昭和へ』

大正天皇が即位をされる前は “元気な皇太子” と言われていたらしいの。全国を旅行されたりしていたしね。
天皇になられてからは、環境が変わるというのかな… 責任が重くなるというのかな… 非常に病気がちになられたの。日光や葉山、沼津の御用邸で過ごされることが多くなったらしいわ。陛下の健康管理というのは宮内省にとっても大テーマだったでしょうね。お医者さんも、もちろん薬の療法もされるけど、それだけではなく、食事からも陛下に健康になってもらうというのが、当時の大膳寮の使命だったと思うわ。でも、残念ながら大正15年12月25日に皇居ではなく葉山の御用邸に移られて亡くなってしまったわ。まさに大正が終わった瞬間ね。

大正天皇の崩御が暮れの25日だったので、市中はかなり混乱したらしいわ。もうすでにお正月用準備は進められていたけれど、皇室だけでなく、国民も喪に服した感じになり、正月飾りや正月行事を取りやめるところが多かったみたいね。
このドラマでも、バンザイ軒のお梅さんが、出さなかった年賀状を片付けていたわね。あれは、25日以降、郵便局が年賀状の受付を停止したため、せっかく書いた年賀状だけど、投函できなかったのよ。

篤蔵さんも仕事柄、元旦から大膳寮に出勤していたけれど、その上着の腕に、黒の喪章を付けていたでしょう。現代では、黒のスーツが安価になったせいか、あまり見かけなくなったけど、昭和40年代くらいまでは、葬式などのお手伝いの人たちは普通のスーツにあの腕章をして、喪服代わりにしていたの。
ちなみに、黒服が喪服になったのは、明治以降のことで、それまでは、白か灰色が喪服 (着物) の色だったの。それが、明治以降、西洋式に洋服を着るようになったことで、喪服も西洋式に黒になったのよ。

『俊子の食事療法』

食事療法という考え方は古代からあったのよ。
食べ物が人間の体調とか健康を整える。薬膳というのかしらね。
しかし、一種の経験値の学問みたいなところがあったけど、明治の後期になってくると、そこに西洋医学の知識も入ってきて学問としてさらに発展していくわ。栄養素としてのたんぱく質や炭水化物… それぞれが違うというのがわかってくる。そうすると、この病気にはこの食べ物がいいのではないかと西洋医学のお医者さんも言い出してくるの。すると、そういう類の本も何冊か出てくるわ。篤蔵くんもそのなかの一冊を参考に俊子さんの料理をつくったのね。本を読んでメモしていたシーンがあったけど、本物の当時の本の1ページをメモしているの。篤蔵くんだから、本のとおりにはつくらないわよね、きっと。フランス料理の考え方もはいってくるし。だから本を参考にしつつ、自分の料理人としての経験値をいれて、さらに見た目が食欲をそそるような色合いにしたり、蕎麦がきでも、一口大にしてみたりだとか、そうやって彼が工夫したであろうと料理監修の脇先生が一生懸命考えてくださったんですよ。

ドラマのセリフにもあったと思うけど 「先のお上にお食事の面でもっと気を配るべきだった」 と言っていたでしょ?お医者さんと相談して食事療法もしたけど、やりきれなかった… という篤蔵さんの気持ちね。病気になる前から、日ごろの食事から、今でいう栄養を考えるべきだったという思いがあるから、俊子さんの食事療法にも一段と熱がはいったのね。


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