2015年4月期連続ドラマ毎週日曜よる9時

日曜九時の時代番

番組の時代考証を担当されている山田順子先生に、各話のちょっと気になるシーンのアレコレをお話していただくコーナーです。

第二回

『新橋〜一丁倫敦』

篤蔵さんが東京に来た明治37年は、まさに日露戦争の真っ只中。
最初は 「日本が勝った」 みたいな話が巷に流れていて、浮かれていたの。ロシアの懐がどんなに深いかなんて知らなかったし、イケイケドンドンだったんです。それが、徐々に現実が見えてきて、大変なことになったときに篤蔵さんは東京に出て来たの。
当時は東京駅がまだないので、まずは新橋駅に出てくるの。そのころの鯖江ー東京間は、16時間くらいかかっていたので、座席のクッションが悪かったから大変だったと思うわ。庶民には 「実は大変な状況だった!」 なんて事情を軍部からは教えられないから 「勝った!」 というお祝いの旗が立っていたり、それから士気高揚っていうのかな、のぼりに強がりの文句がたくさん書かれたものや、日本の国旗がやたらと立っていたのよ。福井にも連隊があるから、そういう旗もあったそうなんだけど、まだ町の中ものんびりしていたし、やっぱりこういうのを飾るのは都会… そういう考えもあって、新橋の街中にたくさん飾りました。
新橋から人力車に乗って、篤蔵さんは当時、一丁倫敦と呼ばれていた現在の丸の内界隈に入っていくわよね。江戸時代、あの界隈は大名屋敷だったの。江戸城の前で大きな大名たちの屋敷が連なっていた。幕府がなくなり、そのあと天皇陛下が来て、まだまだ微妙に明治政府に歯向かう人がいるんじゃないかと、皇居の周りに軍隊を配したほうがいいだろうということで、あの場所を軍隊の駐屯地にしたの。そうして、世の中が落ち着いてくると、今度は皇居の前に軍隊がいるのも… という話になり、軍隊を別に移して…ということになるんだけど、「そこを今度は何にするの !? 」 という話になる。けど、そこを買おうと思う人は、なかなか出てこなかった。とはいえ移転する軍隊も引越しの費用が必要… だって、移った先に駐屯施設を建てなきゃいけないんだから。暗礁に乗り上げたとき、当時の三菱財閥が 「うちが買いますよ」 と名乗り出てくれたの。本当は、半ば明治政府に押し付けられたらしいんだけどね (笑)。それで買ったものの、どうしようかなと考えたとき 「ここに西洋と同じような町並みをつくろう」 という発想がでてきて、西洋風の建物郡を建てたの。
一気には、さすがの三菱財閥も建てられないので、ぽつんぽつんと… 少しずつ建てて、最終的に一丁 (約100メートル) になるの。一丁倫敦が出来る前に、銀座に煉瓦づくりの建物があったんだけど、そのときは技術がそこまでではなかったし、ものすごく住みにくかったみたいよ。明治の初め頃の日本人は、外観はレンガで中の居住部分は畳敷きにしていたけど、一丁倫敦で完全に中も西洋のような土足式のオフィスにしてオシャレなものにしたの。現在は、昔の面影を残したまま、丸の内に 「三菱一号館」 という美術館があるわね。

『着物から洋服へ〜男性編〜』

そういう町並みになってくると、人間も和洋折衷になってくるの。
今までどおり着物で、男性なら袴と羽織って人もいれば、女性も着物で、羽織を着て、日本髪を結っている人もいる。けど、ちょっとオシャレさんだとか、役人系の人だと、仕事の都合上、洋服を着たほうがいいというのもあり、だんだん着る人が増えたのね。お金持ちは誂えの洋服。けど、洋服と言ったって誂えると普通のサラリーマン1年分の仕立て代がかかるのよ。まず、洋服地が日本で織ってないから輸入品。そして、仕立てる技術者の仕立て屋さんも極少数。しかも手縫いだから高いわけ。江戸時代からの伝統で、古着を着るという慣わしがあったから、それを買って着る人もいたのよね。周太郎さんも、スーツを持っていたけど、それはきっと 「東京の大学に行くんだから、スーツのひとつも持っていなきゃ」 とご両親が持たせてくれたんでしょうね。軍隊があるということは、洋服の仕立て需要があるってわけでしょ。武生・鯖江あたりでは洋服屋さんの1〜2軒はあったかもわからないですね。
当時の男子たるもの、西洋文化を吸収するためには、まず洋服。格好からというのは、あったわよね。大学の先生たちもオシャレにしていたわよ。着物の先生もいたかもしれないけど、西洋の進んだ文化を教えるのに説得力があるものね。
男性は帽子をかぶったりするでしょ。ちょんまげがなくなって、寂しくなったのか、やたらと帽子をかぶるようになるの。やっぱり西洋の人たちが正式な場面でシルクハットとか山高帽とか、ラフなときでもハンティングとかかぶるでしょ?それを真似して、帽子をかぶることが西洋化だと思ってたのよね。

江戸時代はお城務めの人はひげを生やしちゃいけなかったのよ。正式な藩士の人は生やしちゃいけなかった。野蛮だと言われていたけど、明治になると、西洋が入ってきて、前回の外人の体格の話と一緒ですけど、外人には大きな体と立派なヒゲがある… と、負けずに体を大きくして、「背が追いつかないなら、カタチだけでもヒゲを生やそう」 とか、当時はカタチから入る時代だったわね。それに伴って、戦争に勝つと自信もついて、海外に出ていく人も増えてきたのよね。
帽子ひとつにとっても、初期のころの山高帽が多かったのが、ソフトになり、中折れソフトになって… と微妙に変わっていくの。一話の一丁倫敦のところでも登場するパナマ帽も、ちょうどこの時代に流行り始めたのよね。そうやって、あえて流行の最先端を取り入れているの。

『華族会館』

華族というのは、江戸時代の大名と公家の子孫と明治維新の功労者が華族と呼ばれていたの。今まではお殿様と言われていた人たちが、幕府がなくなって、普通の人でいいかと言うと、そうはいかないじゃない。
華族のなかにも、位が5つに別れていて、「公爵」 「侯爵」 「伯爵」 「子爵」 「男爵」。元の大名の時代の石高 (こくだか) とか、明治維新の貢献度で変わってくるの。その人たちが一種の親睦倶楽部みたいなものをつくるんだけど、そこの会館となった建物が 「華族会館」 ね。この建物、実は歴史の教科書でお馴染みの 「鹿鳴館」 と呼ばれていたもので、日比谷公園の南側にあったのよ。
そこに出入りするのは、関係者か華族様しか出入りできないから、日本でいえば超高級倶楽部なわけ。庶民は絶対に入れないわね。
彼らは、家では料理人を雇っているような裕福な人たち。だから、日本食は家で食べられる。だから家でできない西洋料理を華族会館では出していたわね。そして、そこで宮中晩餐会とか、政府のパーティに呼ばれたときのための練習もやっていたのよ。日ごろから慣れておこうと外国人を呼んでパーティなんかもしていたわね。そこでは高級西洋料理を出す必要があった。東京にもいろんな西洋料理のお店がでていたけど、そのなかでもトップクラスのおいしい高級西洋料理を出す。なので、そこで働くシェフたちも一流のシェフたちじゃないといけなかった。普通はそのシェフの中に、なかなか入る機会はないですよ。けれど、桐塚先生という周太郎の恩師で、当時は日本大学の教授だった先生が、華族会館の顧問弁護士をやっていたの。会館でトラブルが起きたときには、やはり優秀な弁護士が欲しいわよね。華族さまの位に匹敵するくらいの能力の人。そんな彼が推薦する人がいる… ということで、篤蔵はうまく華族会館に潜りこむことが出来たのよ。

ドラマのなかでは描かれていない部分だけど、どうも桐塚先生も鯖江・武生あたりの出身らしいのよ。だから、周太郎とも教え子以上の関係だったのよね。


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