2015年4月期連続ドラマ毎週日曜よる9時

日曜九時の時代番

番組の時代考証を担当されている山田順子先生に、各話のちょっと気になるシーンのアレコレをお話していただくコーナーです。

第十回

『篤蔵家の子どもたち』

この時代で、私たちが一番悩んだのは子どもの服装でした。
着物にするか… 洋服にするか。以前もお話ししましたが、時代の移り変わりによって洋服と着物の比率を変えているんです。もちろん色や柄も時代を考えて。まだ着物を着ている子もいるし、おしゃれで洋服を着ている子もいる。篤蔵家も一太郎は普段は着物を着ているけど、関東大震災の日は洋服を着ていました。住んでいる場所が山手だということ、それから篤蔵さんが海外生活をした人だから、西洋化が進んだ家の子どもということで、学校に行くなら洋服、家では和服という線引きをしました。さらに、9月1日は始業式かしらね?だから早く学校から帰ってきて家で震災にあったのだろうという想定にしました。長女の初江ちゃんは、女の子ということと、まだ小さいから着物にしたわ。
その当時の撮影された写真を見ると、東京だと洋服が多いし、地方だとやっぱり着物が多いのよね。

『先進的な授業参観』

一番最後のシーンで授業参観があったわよね。そのころから授業参観があったの?と思われるかもしれませんが、この当時、ある学校とない学校がすでにあったわ。先進的な学校は授業参観は始めていたのよ。
今は父母の発言力は強いけど、当時は先生に全てお任せする感じだったわ。親が PTA を組織してどうのというのはなかったけど、当時学校は地域の人たち皆で支えていくものだったの。
制度として、授業参観というのがちょうど普及しはじめてきたころだったの。一太郎が行っていた小学校は都会の小学校で、先進をいっているからあえて授業参観のシーンをいれてみました。
もう皆さまおわかりだと思うけど、この作品は時代の過渡期が多いのよね。制度的なことで驚くことも多いかもしれないけれど、先進的なことはエッセンスとしていれていっているのよ。

『お毒見』

篤蔵くんが日光の御用邸にてんぷらの道具を担いで、ほとんど押しかけで (笑)、てんぷらを皇后の御前で揚げて食べていただくシーンがありましたね。
この皇后は、大正天皇の后で、お名前を節子 (さだこ) といわれ、昭和26年に崩御されたのちに貞明皇后 (ていめいこうごう) と追号された方です。

当時の天皇皇后のお食事というのは、必ずお毒見をしていました。
ひとつにはそれ以前にいろんな事件があって、明治天皇のお父上・孝明天皇は毒殺だったのではないかという説もあり、召し上がられるときは毒見役が一部とって食べてみるということを儀式としてやっていたの。
ふたつには、健康に害するものかどうかのチェックね。油がきついんじゃないかとか、辛すぎるんじゃないかとか、食品が腐っていないかなど… 健康面でチェックしていたの。お腹の調子が悪くなったり、体調が悪くなったりしたときに、その原因はあのときの油じゃないか… と診断のためにもお医者さんも一緒に食べていたわ。だからお食事もお一人のために三人前くらい作るんですよ。それをひとつ盛りにして運んで、アットランダムに分けて各々が毒見するの。これは、料理人を信用している信用していないじゃなくて、伝統なのよね。お毒見は天皇に限らず、昔は将軍家でも大名家でもやっていたし、偉い人のお食事はみんなそうだったのよ。特別なことではなかったわ。
だから、あのシーンでもてんぷらを揚げた一品目を皇后ではなくて、女官・滝川さんへ持っていったでしょ?滝川さんが一口食べて、油はどうか、エビは生臭くないかとか、チェックされて 「大丈夫です」 とちょっと目くばせされるの。セリフはないけれど、微妙なやりとりがあったわ。もし機会があったら見直してみてくださいね。

『女官の仕事』

女官は、皇后とずっと一緒だから、家族のような存在ね。小さいころから就いている場合と、皇室に入ってからの教育係として就いている場合。たぶん滝川さんはご教育係ね。年上の女性として皇后はどういう立ち振る舞いをすべきか教える係でもあるし、ボディーガードや取次ぎ役など… 女官の中でもトップクラスだと思うわ。皇后がうっかり一言余計なことを言ったら事件になるから、皇后が何かを話そうとするとき「わたくしから」と滝川さんが言ったわよね?偉い人の口からでた言葉は取り消しができないのだけど、女官が言ったことならば女官が勝手に言ったことだからと取り消しが効く。女官が言ったことであって、皇后がおっしゃったことではないという意味ね。そして篤蔵くんの当時の位は宮内省のランクだと下から数えたほうが早かった。普通なら皇后とはお会いできないし、お顔も見られない。お部屋に入ってお話するときも基本的に下を向いてなければならないの。お顔をまともに見てはいけないという礼儀ね。もちろん直接言葉をかけるということはないわ…というのが建前だけど、ときには例外もあったかもね。ということで皇后とやりとりをするシーンは今回のドラマのなかで、宮中のしきたりが垣間見えるシーンだったわね。
前回、大膳寮の調理所でリンゴを切ってお出しをするか、丸のままお出しするかというシーンがあったわね。宮前厨司が 「切るは腹を切るに通じます」「果物は切らぬことがしきたりになっているのかと存じます」 と言っていたけど、実はリンゴやメロンなどは、陛下が食べる直前に女官が傍で切ってお出しするので、調理所で切る必要はなかったの。篤蔵さん宮前さんに一杯食わされましたね。

『俊子と産婆』

現代は出産の介助をする人を助産師と呼ぶけれど、江戸時代から昭和22年までは産婆と呼んでいました。だから俊子さんも自分の仕事を産婆と言っていたわね。現代からみると、ずいぶん失礼な話よね 「婆」 なんて!
俊子さんが産婆になったころ、ちょうど産婆にも資格試験というのが始まったのよ。明治の初め、医者は医術開業試験が始まり、明治後期には医学の大学や専門学校卒業者しか医者になれなくなったの。それにあわせて 「産婆はいいのか?」 という話になり、産婆も一定の資格試験をクリアしないとなれなくなっていったの。そうはいっても、今すぐベテランのおばあちゃんに 「試験を受けて!」 と言っても、当時は字が読めない産婆も多かったから 「経験値が高い人たちは続けてよし!新規は試験が必要!」 となっていく過渡期だったのね。俊子さんは出産の経験もないですし、産婆の学校か、勉強をして資格をとって産婆を始めたという設定ね。

昔は田舎だと、いざとなったら産婆さんがいなくても近所のお母さんとか、経験豊富な女の人たちが取り上げて、難産のときだけお医者さんを呼んでいたのよ。出産でお医者さん呼んでくるのは異常事態だったの。お医者さんも慣れていないから、気付け薬のようなものを与えるしかないんだけどね。だから女医者っていうのが江戸時代に出来るの。女医者っていうのは、女の人が医者になるのではなくて、婦人科の先生のこと。それは、産婆さんのところで持て余した妊婦さんをみてくれるんだけど、難産で子どもがでてこなくて、おなかの中に留まっちゃったまま、お子さんもお母さんも命を落としてしまうというケースを専門に扱ったけど、当時としてはお母さんを助けるのが精一杯だったようね。

『関東大震災』

大正12年9月1日。発生時間は11時58分32秒。
ちょうどお昼どきの仕度をしていた時間ね。だから地震の揺れもすごいけど、火がすごかったわ。コンロも今みたいにガスのスイッチを切ったり、IH みたいに止まるわけでもなくて、裸火か燃えているだけだから、そこに家具が倒れてくると、一気に燃え広がって、揺れの倒壊も多かったけど、火事もすごかったそうよ。
下町のほうは、木造の家が多いから特に燃えて、その火が東京中に広がったの。夕方ころになると火の海になっていたと言われているわ。

東京で、一番広くて燃えにくい場所は実は皇居なの。晴海から銀座、日本橋まで家がギチギチだから大きい広場はなかったわ。学校のグラウンドくらいの大きさだと周りに火が迫ると熱風がはいって逃げ場がなくなっちゃうの。そうすると川に飛び込むか、海に飛び込むか… よね。そういう人たちが逃げ惑って、逃げ込んできたのは、皇居前。あそこは一番広いのよ。今も十分に広いけど、当時はさらに広かったのよ。そこに人がワッと逃げ込んできた。それから篤蔵くんのもとに 「平川門をひらく」 という報せが入ってきたでしょ。神田のあたりも火の海になっていて、平川門の前にあった東京商科大学 (現在の一橋大学) も火の海で、もう逃げ場がなくなったの。それで門を開けて皇居のなかに避難民を入れることになるわけ。

宮内省が門をあけて避難民を受け入れたのはいいけれど、みなさん昼ご飯の仕度している時間から非難した夕方ころまで何も食べていないでしょ。お腹も空いているというので、宮内省が炊き出しをすることにしたの。隣が近衛師団の駐屯地なんだけど、近衛の兵隊さんたちがいざというときに使う乾パンやお米、それから宮内省の中の備蓄米… そういうのを全部用意して、おにぎりにしたという史実があるのよ。だから我々も史実にのっとって、炊き出しのシーンをいれました。9月1日の夜から始まって、9月いっぱいまで炊き出ししていたらしいわよ。
ちなみに天皇・皇后両陛下は、偶然日光の御用邸にいたから、皇居にはいらっしゃらなかったのよ。そのときは摂政の宮と呼ばれていた昭和天皇が指揮を執られていたのよ。


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