帰ってきた!お江戸マメ知識

まるで本当に見てきたかのように「江戸のアレコレ」を語ってくれる、時代考証の山田順子先生による人気コーナーが復活!毎週気になるシーンについて解説していただきます。

第8回

『船中八策』と後世呼ばれるものを書いている龍馬。
が、なぜか『九』の項目まであって…

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『船中八策』が『船中九策』になっているのは、ドラマオリジナルのエピソードね。我々はこの作品の中で生きる坂本龍馬が、『南方仁』という現代人に多大な影響を受けたという設定を踏まえて、“2人の友情の証”としてこういったオリジナルエピソードを盛り込んだの。江戸時代の医療事情を知った仁先生にとって、貧しくて医療を受けられない人たちが、望み通りに医療を受けられるような世の中になるということは、ひとつの願いでもあったんじゃないかしら。
ただ、実は“保険”に似たような考え方自体は江戸にもあってね、もちろん今でいう健康保険のようなものはなかったけれど、『講』という組織が存在しているの。これは、江戸時代よりずっと前に、仏教の発想から生まれたものなんだけど…例えば、お寺を立て直そうと思ったときに、グループというか組合のようなものを作って、そこでお金を出しあって積み立てを行うわけ。
それが江戸時代の初期になると、世の中が平和になっていき、お寺を建て直すようなときだけではなくて、旅行といった娯楽に対しての積み立て方法として、つまり一種の“金融の助け合い”や“まとまったお金を作る方法”として、庶民の間でも利用されるようになるの。みんなで生活に困らない程度のお金を小額ずつかけておいて、「誰か困った人がいたら、その人にまとまったお金を貸す」という考え方が浸透していき、それまでは単なる仏教の団体にすぎなかったものが、互助会として成立するようになっていくのね。江戸の観光旅行文化が発達したのも、この『講』によるところが大きいと言われているのよ。

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咲 「『帝王切開』をいたしましょう。大丈夫です。女子は子を守る為なら、どんな痛みにも耐えられまする」

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当時の日本では、『帝王切開』というのはありえないお話。だって、お腹を開けたとしても、それを縫い合わせる技術がないでしょう?盲腸ですら、大騒ぎの時代だったんだから…。
古代からずっと、『お産』というのは “自然分娩”が原則だったの。江戸時代にも産科の医者というのが存在していなかったんだけれど、これはなぜかというと「お産は病気ではない」と考えられていたから。ただ、ひとりではなかなか産めるものではないから、周りにいる女性がお手伝いするわよね。そんな中で、何度か出産経験のあるベテランの女性がリーダー格になっていき、あちこちから「手伝ってほしい」とお声がかかるようになって、江戸の中期ぐらいから次第に『産婆』というお産のプロが生まれるわけ。これまでは「家庭内」とか「長屋の中」で自然とみんなが助け合ってやっていたことが、徐々に中年以降の女性の職業のひとつとして成立するようになるのね。
ただ、自然分娩で何の問題もなければいいんだけれど…逆子だとかお腹の中で胎児が死んでしまうというようなケースもあって、その時にそのまま子を母体に置いておくと、母親の命が危険じゃない。それで、あくまでも母親の命を守るために、大変残酷なことだけれども、逆子であれば薬で子を殺し、死んでいるのであればお腹の中から引っ張り出すという専門のお医者さんが生まれたの。つまり、自然分娩を手伝うお医者さんではなくて、何かトラブルがあった時に、その母体を守るための医療をするのがこの医者の仕事であり、それが江戸時代の『産科』の姿なのね。そして、その医者のことを、“女性を診る医者”という意味で『女医者』と呼んだわけ。毎回トラブルが起こるわけではないし、女医者は江戸にも10人程度しかいなかったんじゃないかしら。
もちろん、逆子を自然分娩で取り出そうとしたケースもあったと思うけれど、やっぱり子供にも母親にも負担がかかるし、出産に時間がかかりすぎて赤ん坊が酸欠になって脳をやられてしまったりと、出産時のリスクが大きすぎるのよ。だから、逆子は諦めるというケースがほとんどだったと思うわ。

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『ええじゃないか』の群衆に、変装して参加している龍馬

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『ええじゃないか』とは、1867年(慶応3年)から1868年(明治元年)にかけて発生した社会現象のこと。“天から御札が降ってきた”という噂がどこからともなく広まり、「これは慶事の前触れだ」ということで、人々が変装するなどして囃子言葉(掛け声)の「ええじゃないか」等を連呼しながら熱狂的に踊りまくり、集団で移動していくというものなんだけれど、三河の国(今の愛知県豊橋市)が発祥とされていて、そこから東と西に波及していったといわれているの。
もともと江戸時代には、『お陰参り(お伊勢参り)』という伝統があって、数十年に一度、庶民がワーッと衝動的にお伊勢さん(伊勢神宮)へ集団参拝をするという現象が存在していたんだけど…この時代にはつまり“信仰”という名のもとに衝動的に旅に出るということが暗に認められていたのね。不思議なことに、これに関しては、普段“関所がどうの”とガミガミいう幕府もあまりうるさいことをいわないのよ。だから、これは庶民たちに許された、ある種の“ガス抜き”なんだと思うの。江戸時代というのは今と違って抑圧された時代だったから、民衆たちもいろんな掟や決まりごとに縛られて、不満が溜まっていたでしょう。それで、幕府がそんな民衆たちのエネルギーを適度に発散させるために、こういったイベントを黙認していたんじゃないかと思われるのね。『ええじゃないか』の集団に対して、沿道の人たちは食事やお酒を振る舞わないと、(焼き打ちとか打ちこわしをされるほどではないけれど)乱暴されてしまうのよ。だから、『ええんじゃないか』に参加していれば、銭を持たずに家を飛び出しても、何とか食い繋いでお伊勢さんまで行って帰ってこれたわけ。タダで旅ができる、ある種のイベントとでも言ったらわかりやすいのかしら。
ただ、『ええじゃないか』がこれまでの『お陰参り』と違うのは、若干そこに政治的な色が入ってきたってこと。それまではただ単に「お伊勢さんへ行こう!」という衝動のみだったんだけれど、江戸末期になると幕府の力が弱くなっているでしょう?長州征伐に失敗したり、はたまた薩長が手を結んだりもして、いつ戦争が起こるのかわからないような不穏な世の中で、人々は幕府の政治に対して非常に不満を持っていたの。それに、開国してからというもの、物価が急騰して食えない人もたくさんいたしね。そうなると打ち壊しに行く人もいれば、『ええじゃないか』に参加して憂さを晴らす人もいたってわけなのよ。
ちなみに、『ええじゃないか』に決まりの“踊り”や“唄”というものは存在しないんだけど、みんながどんなことをやっていたのかというと、地元の盆踊りやお祭りのフリで踊ったり、念仏を盛り込んだり…。「ええじゃないか」というのは「掛け声」であって「唄」じゃない。それぞれの土地で行っている踊りや掛け声に、“ええじゃないか”という囃子言葉をくっつけて騒いでいただけなの。だから、その地方によって、変装のパターンや踊りなどが異なっているのよ。

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山田先生への質問は締め切りました。たくさんのご応募をいただき、ありがとうございました!