帰ってきた!お江戸マメ知識

まるで本当に見てきたかのように「江戸のアレコレ」を語ってくれる、時代考証の山田順子先生による人気コーナーが復活!毎週気になるシーンについて解説していただきます。

第1回

薬籠を手に持ち、『仁友堂』へ戻ってくる仁。

(写真)

もともとは橘家の一角に治療所を構えていた『仁友堂』だけれど、あれから時が経ったということで、新門辰五郎親分の指揮のもと建設中だった『新しい仁友堂』がお目見えしたわね。その所在地は新コーナーで確認してもらうとして、注目してもらいたいのはその構造。原作では『仁友堂』の内部について事細かに描かれているわけではないから、映像化するにあたっては“どんな構造だったのか”と想像力を働かせる必要があったわ。とはいっても、もちろん江戸の大工が建てたものだから、全体的に純和風のつくりになってはいるんだけれど…きっと仁先生は“現代の病院のシステム”を導入したんじゃないかと思ったの。入ってすぐに『受付(帳場)』があり、『待合室』もあって…『カルテ棚』が置いてあったことにも気付いたかしら?当時のお医者さんたちは、患者の記録を日誌にとることはあったようだけど、「患者ごとにカルテを作る」ということはしていなかったみたいなの。だから、あえて“いろは順”にカルテの並んだ棚を設置してみたんだけれど、当時としてはすごく画期的なシステムだったはずよ。他にも、外の光が入るようにと窓を大きめにしたり、清潔感を保つために診療室の床を(サッと汚れがふき取れる)フローリングにしてみたり、診察がしやすいようにベッドを導入してみたり…。きっと視聴者の方(特に、ご年配の方)の中には、『仁友堂』を見て「なんだか懐かしい雰囲気だな」と感じた方も少なくないと思うのですが、それは『仁友堂』が昭和の個人医院の要素を多く備えているから。今は立派で大きな病院も増えているけれど、少し前までは、あのような江戸時代からの生活習慣をうまく取り入れた個人医院も多かったんですよ。

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仁「栄さん、どこか悪いんですか?」
恭太郎「(ため息ひとつ)どうやら、脚気のようで」

(写真)

劇中でもかなり細かく描かれていたけれど、『脚気』とはビタミンB1の欠乏から起こる、通称“江戸患い”と呼ばれていた病のこと。でも、当時は原因がわからず、江戸へ来るとなぜかかかってしまう病気として、「伝染病」や「風土病」ではないかと考えられていたの。もっとも、日本人が米を精白して食べるようになったのは、江戸時代初め頃からだけど、実際に食べられたのは大名や金持ちだけの“ぜいたく食”で、庶民たちは長年、雑穀や玄米を中心とした生活をしていたの。ところが、江戸時代中期になると都市部(江戸)では“白米を食べる習慣”が庶民にまで広まって、人々は「噛んだときにやわらかくて味が良い」となによりも好んで食べるようになったのね。でも、白米とは、玄米から“ぬか層”や“胚芽”を取り除いたもの。実は、その取り除いた部分にこそ、ビタミンB1が多く含まれていたものだから、江戸の人々はどうしても栄養が偏りがちで、あのような手足のしびれなどの症状に苦しむ人が多かったの。
ちなみに、なぜ江戸時代になって白米が一般に出回るようになったかというと…これまでは杵と臼で手間のかかる作業をしていたところへ、中国から日本に足踏み式の搗き臼(精米機)が入ってきて、手軽で効率的な精米ができるようになったからということも大きく関係しているのよ。

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瀕死の状態で横たわる佐久間象山。
包帯にはかなりの箇所、血が滲んでいる。

(写真)

佐久間象山という人物は、松代(今でいう長野市南東部)出身の思想家。西洋の学問や歴史に造詣が深く、この時代には数少ない砲術の研究家でもあったの。
江戸で開塾した際には、勝海舟や坂本龍馬、吉田松陰らにも大砲の扱いなどを教えたこともあり、それが縁となって勝の妹・順と知り合い結婚したってわけ。
当時としては飛びぬけて奇抜な考え方の持ち主で、プライドも高く、周りからは“洋夷かぶれのホラ吹き”という目で見られて理解されないことも多かったようだけど…松代藩主・真田幸貫が幕府の海防掛に任命された時には、西洋の事情について調査して、「海防八策」という海防の重要性について説いた意見書を提出したことでも有名。その他にも、実際に大砲を製造したり、ガラス、電気医療機などの研究もしていたのよ。
1854年、教え子のひとり・吉田松陰が米国密航未遂事件を起こした際、手を貸したと疑われて罪に問われ、それから8年間も自宅で蟄居(江戸時代、武士に科した刑罰のひとつ)を命じられるんだけど、その間にも西洋研究に没頭し、ますます西洋の技術が進んでいることを知ることになるの。
赦免された後には「東洋が西洋の侵略を防ぐには、西洋の先進技術を取り入れる必要がある」という象山の主張が幕府に認められるようになり、将軍・徳川家茂から直々に呼ばれて上洛。有頂天となって、諸侯や公卿らに公武合体・開国遷都を説いて回っていたの。でも、「俺って天才!ついに俺の時代がやって来るぜ〜」と舞い上がっていた矢先に、暗殺されてしまったのね。きっと、とても無念だったと思うわ…。

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山田先生への質問は締め切りました。たくさんのご応募をいただき、ありがとうございました!