帰ってきた!お江戸マメ知識

まるで本当に見てきたかのように「江戸のアレコレ」を語ってくれる、時代考証の山田順子先生による人気コーナーが復活!毎週気になるシーンについて解説していただきます。

第6回

医師たちの前で講義する仁の姿を、教室の後ろから品定めするように見ている医師・ボードウィン。

(写真)

19世紀、オランダは鎖国中の日本で「唯一、交易を許された西欧国」であったことはご存知よね!?その事実を踏まえた上で、今回は当時の日本で活躍したオランダ医師たちのお話を少しするわ。これまでにも、シーボルト(ドイツ人の医師だが、1823年(文政6年)に“オランダ商館付き医師”兼“自然調査官”として長崎・出島に派遣された人物。『鳴滝塾』を開き、全国各地から集まった門弟たちに西洋の進んだ学問や思想を教えた)のように、外国の医者が“幕府の許可をもらって個人的に医学を教える”というケースはあったんだけれど、幕府の組織として本格的に『学校』と『病院』が建立されたのは、『精得館』が初めてだったの。この『精得館』の建立に尽力したオランダ軍医・ポンペの帰国後、2代目の教頭としてここで教鞭を執っていたのが、ドラマにも登場したアントニウス・ボードウィンね。彼もポンペと同じく軍医だったのだけれど、専門は眼科。ちなみに、ボードウィンはこの後に一旦は帰国してしまうんだけれど、明治維新後にはまた日本へやってきて、大阪で医学学校の先生を務めたりしたこともあったから、彼の弟子というのは結構多いのよ。彼らは間違いなく、幕末から明治にかけて日本の西洋医学界をリードしたと言える存在なの。
それからもうひとつ。ボードウィンの功績として忘れてはならないのは、彼が『アマチュア写真家』としての一面を持っていたこと。ボードウィンは来日の際にカメラを持ちこんでいて、日本で何百枚もの写真を撮影しているの。我々がよく見かける『幕末』というテーマの写真集の中にも、「ボードウィン撮」の写真は必ず登場するほど。彼は医者としても素晴らしい人だっただろうけれど、写真家としても、ものすごく日本へ貢献した人なのよ。

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仁、ふと窓の外を見ると、龍馬たちが長切昆布を運んでいるのが見える。

(写真)

鎖国中だった江戸時代において、江戸幕府が国際貿易港として唯一認めていた場所が、長崎・出島だったのは有名な話よね。1858年(安政5年)に開国されると、アメリカやイギリス・フランスなどの商人も来日するようになって、出島だけでは住みきれないような人口に膨れ上がってしまったの。そこで、長崎にも海沿いに『外国人居留地』が設けられて、その後ろの山側には住宅街ができたのね。そうやって日本へやってきた商人たちが、主にどんなものを扱っていたかというと…3大輸出品は、生糸、お茶、それから金(小判)。なぜ「金」なのかっていうと、日本の金(小判)と海外の銀の相場が全然違うから。つまり、海外から銀を持ち込んで日本で金に換えると、すごい儲けになるのよ。そして、輸入品のメインは、なんといっても蒸気船や武器の類ね。それまでは幕府が全部管理していたから、各藩が自由に武器を購入することは絶対に無理だったけれど…開国を機にそのあたりの規制もゆるくなって、ある藩が武器を持てば、隣の藩だって「うちも欲しい!」ということになるでしょう?だから、ものすごい量の武器が日本に入ってくるようになったの。日本各地でドンパチが勃発しても、結局その戦に使う大砲や、鉄砲(+鉄砲の弾)、火薬なんかは、ぜんぶ輸入品に頼りきりだったんだから。
もちろん、それ以外にもガラスとか工芸品とか羊毛とかいろいろあるんだけれど…ここで押さえておきたいのは、なんと「日本から中国に昆布が大量に輸出されていた」という事実。どうしてかというと、中国は暖かいから昆布がとれないのよ。そこで、当時は北回り船(=北前船。日本海側を下って、北海道・東北の商品を積んでやってくる船)に昆布が大量に積まれてやってきて、中継地点の長崎から中国へ出荷されるということがあたりまえのように行われていたの。第6話では、龍馬がグラバー邸から長切昆布に銃を隠して運び出そうとするというシーンがあったけれど、あれはこういった当時の輸出事情を踏まえて作られたエピソード。当初の台本では、「『米俵』に隠して銃を運び出す」となっていたのだけれど、米俵じゃ寸足らずで銃を隠せないでしょう?そこで、「なにかないかしら」と考えたところ、ふと思いついたのが長切昆布だったの(笑)。

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岡田「実は岡田というのは偽名でございまして、真の名は田中久重と申します」

(写真)

田中久重とは、「からくり儀右衛門」というあだ名でも知られる、江戸時代から明治時代にかけて活躍した日本の発明家。『TOSHIBA(東芝)』の礎を築いたことでも有名な人物なの。現在の福岡県久留米市に、鼈甲細工師(べっこうざいくし)の長男として生まれたんだけれど、きっと幼少時代から手先が器用だったのでしょうね。どんどんとその才能を発揮して、1834年(天保5年)には無尽灯(圧力を利用した“手を汚さずとも灯油を補給することのできる”灯明)を商品化。それを大阪で売り出したところ、これが大ヒットするの。
そんな評判を聞きつけて、“蘭学狂い”で知られた肥前国佐賀藩の鍋島直正という人物から、「もっといろんなものを本格的に作ってみないか」と声をかけられた田中は、同じく技術者であった息子と一緒に鍋島のもとで働くことになるんだけれど、蒸気機関車や蒸気船、それにアームストロング砲などを手掛けたりもして、さらにその技術力を高めていくわけ。
ちなみに、田中久重を演じる浅野和之さんのセリフの中に、「息子と孫を殺された」とあったけれど、あれは本当のお話。正直なところ、これ以上の情報はないんだけれど…ある時、長崎への出張を命じられた彼の息子は、一緒に出張へ出かけたはずの同僚に殺されてしまったらしいの。一説には、その同僚が精神錯乱に陥ったとも言われているんだけれど、西洋や蘭学の嫌いな人に恨みを買ったというのならまだしも、海外留学経験もある人に息子と孫を殺されてしまった田中久重の悲しみは、相当深いものだったんじゃないかしら。

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山田先生への質問は締め切りました。たくさんのご応募をいただき、ありがとうございました!