帰ってきた!お江戸マメ知識

まるで本当に見てきたかのように「江戸のアレコレ」を語ってくれる、時代考証の山田順子先生による人気コーナーが復活!毎週気になるシーンについて解説していただきます。

第2回

仁「松本先生の患者さんの(と、気づき)!そ、それって、こ、こ、こ皇女和宮!」

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皇女和宮とは、幕末動乱期に『公武合体』の切り札として政略結婚を強いられた悲劇の皇女です。17歳のとき、京の御所から実母や乳母を伴って、武家(徳川家)に降嫁してきたんだけれど、その当時の京と江戸には「文化」や「風習」に大きな違いがあり、また大奥には大奥の「伝統」というものがあったの。そこへ、天章院(将軍・家茂の母)との嫁姑問題が勃発したりもして、彼女も最初はずいぶん戸惑ったんじゃないかと思うわ。まぁ、嫁姑問題なんて、どこの家でも少なからず起こっていることでしょうから、そんなに物珍しいものではないけれど(笑)、この大奥というのは女ばかりが1000人以上も生活していたといわれる場所だけに、やっぱり特殊な世界だったことには変わりないでしょうね。
そんな中、外からやってきた嫁である和宮は、もともと大奥にいる女たちからビミョーないじめを受けるわけ!「ヘアスタイルが大奥風じゃない」とか「着る物が違う」とか「所作がなっていない」みたいな些細なことに始まってね。でも、和宮(というよりも、和宮のお付きの人たち)からすると、“わざわざ降嫁してきてやった”という感覚だから、「言われるがままに幕府の風習にならうというのはなんだか違う」といった主張もあって、なかなか受け入れがたいことだったみたい。
大奥の中で孤立した存在の和宮を支え、生涯大切にしたといわれているのが、夫の家茂よ。彼は、和宮が嫁いできた当初から、彼女を気遣ってとっても優しく接してあげていたの。その優しすぎる性格がゆえに、将軍としては少々リーダーシップにかけるようなところもあったみたいだけれど、そんな家茂の気持ちが和宮の心を徐々にほぐしていったといわれているわ。2人の結婚期間は、だいたい4年ぐらい。家茂は京都にいっていることも多かったから、共に生活していたのは実質1年半程度だと思うけれど…同い年でもあり、境遇が似ていることも手伝って、2人は打ち解けることができたんじゃないかしら。
そんな2人の間柄を示すエピソードとしては、こんなお話が残っているの。ある日、家茂と和宮・天璋院の3人がお座敷から庭へ出ようとした時に、和宮と天璋院の草履は踏石の上に置かれてあったのに、どういうわけか家茂の草履だけがたまたま下に置いてあったんだって。それをみた和宮が、ぴょんと飛び下りて家茂の草履を拾い、自分の草履をどけて石の上に置いたらしいの。これをきっかけに、周りの誰しもが「ああ、和宮さまは幕府の嫁になられたんだな」と認識するようになったらしいんだけれど、草履を触る、ましてや自分が飛び下りて、自らの手で拾ってあげたということは、和宮が皇女としての身分を振りかざすことなく、家茂を慕っていた証。『政略結婚』という最悪の出会いだったけれど、“おしどり夫婦”といわれた2人の心の結びつきは非常に深かったみたい。

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田之助「あの方は日本で一番さびしいお姫様だからねぇ。相思相愛の許婚がいたのに、(中略)言葉もしきたりも違う大奥に連れて来られてさ」

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皇女和宮の説明でも触れたけれど、『大奥』というのは(時代にもよるけれど)つねに1000人〜2000人ぐらいの女性がいた場所だから、男性陣も大いに興味があるみたいね(笑)。それでよく「実際どんなところだったの?」と聞かれるんだけれど…そもそもまず、大奥にいる数千人のうち、2、3割程度の女性しか将軍のお顔を見ることが許されていないというのはご存じかしら?将軍との面会が許されるのか・許されないのかの基準は、男の人においても同じことがいえるんだけれど…“お目見え”と“お目見え以下”という2つに分かれていて、“お目見え”っていうのは将軍の前にいってご挨拶をしたり顔を見ることができるんだけれど、“お目見え以下”というのはそれが出来ない人たちのことをいうの。『旗本』は「お目見え出来る人」のこと、『御家人』というのは「お目見えが出来ない人」のこと。そこに、『旗本』と『御家人』の線引きがあるんだけれど、そのルールが大奥にも同じように存在していて、出身が旗本の娘は、“お目見え”のグループに属するわけ。ただ、実力が認められれば“お目見え以下”から“お目見え”にランクが上がる可能性はあるの。もともと大奥に仕えるには、「家柄」と「文字が綺麗かどうか」という厳しい審査をクリアしなくてはならないんだけれど、綺麗な文字が書けたり事務処理能力があるってことは、「管理能力がある」と認められて、今でいう“キャリアウーマン”として出世の道が開けるのね。この時代は、女性が独自に身を立てる事は困難だったけれど、大奥奉公は立身出世を叶えてくれる場でもあったの。そして、そういう事務処理能力に長けた人たちが、側室とかいろんな人のお側に仕えるようになって、その女性の経済やお付き合いなんかを全部仕切るようになり、最終的には『お年寄』と呼ばれる人になるのよ。
大奥というのは、もちろん将軍様のお手つきになって若君でも産めば、それは一族にとって非常に光栄なことだったと思うけれど…かといって、大奥に入ったらみんな「将軍様一筋!」でいなければいけなかったというわけでもないの。封鎖された場所というイメージがあるかもしれないけれど、それは男性の出入りがガッチリとガードされていただけ。“将軍の子を産む可能性”がない限りはいくらでも嫁にいけるし、恋愛もOK!いったん出てしまえば、見張りがついてくるようなこともないし、「親が病気でございます」とかなんとか理由をつけて、宿下がりの時に婚約者とデートをしたり、「親の看病が長引く」と称し、結婚して戻らなかったり…。「最低何年勤めなくてはいけない」といった決まりもないから、そんなにガチガチに固められた世界ではないのよ。
それに、「大奥で働いていた」という実績は、“礼儀作法もしっかりしているし、教養もあるお嬢さん”というステータスを手に入れたと同然!嫁に行くときにも有利なことから、“女学校”的な感覚で親が入れることもあり、またキャリア志向の高い人にとっても魅力的な、非常に人気の高い就職先だったの。大奥に奉公すると、女性でもいいお給料をもらえるから実家も潤うし、親たちも必死になって娘たちを教育したみたいね。

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御年寄「奥医師でもない者におまかせすることはできませぬ!」
良順「この者は指示をするのみ。治療をするのは私でございます!」

(写真)

幕府には“お抱えの医師団”があって、そこに属する医者の数はだいたい100人ぐらい。その中で、上位の10名程度が『奥医師』と呼ばれる存在だったの。もともと幕府というのは、一種の“軍事組織”でしょう?だから、戦などがあった際の治療に備えて、大勢の軍医さんを囲っていたんだけれど…医者の中にも身分によってランクがあって、「御家人を診る医者」や「大名を診る医者」などと細かく分かれていたの。そして、中でも一番ランクが高い『奥医者』が、「将軍とその家族」を診ていたのね。ちなみに、『奥医者』の“奥”というのは、将軍のいる部屋が「中奥」「大奥」だから、そこの医者という意味よ。
なぜ「彼らが”坊主”なのか」って!?それは、『奥医師』になると、自動的に法印・法眼というお坊さんの位をもらうことになるからなの。まぁ、奥医師になったから急に坊主にするという人はあまりいなくて、奥医師を目指している人はもともと坊主にしているケースが多いんだけど(笑)。それから、ドラマを見て松本良順先生だけが”和宮お付き”の奥医師だというふうに解釈した方もいらっしゃるかもしれないけれど、補足しておくと、そういうことではなくて3人ぐらいの医者が交代制でお側に仕えているの。誰かひとりの医者がずーっと側についているわけにもいかないから、数名で交代しつつ、将軍と将軍家の家族の体調管理をしているわけ。あの多紀先生も、そのひとり。なにかあったときには、その数名の奥医師同士で相談し合って、治療方針を決めたりするのよ。

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山田先生への質問は締め切りました。たくさんのご応募をいただき、ありがとうございました!