帰ってきた!お江戸マメ知識

まるで本当に見てきたかのように「江戸のアレコレ」を語ってくれる、時代考証の山田順子先生による人気コーナーが復活!毎週気になるシーンについて解説していただきます。

第5回

咲「!吉十郎とは、あ、あの坂東吉十郎様で!?」

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坂東吉十郎というのは、実在の歌舞伎役者なんだけれど、唯一この方の存在が確認できるのは、天保時代(1830年〜1843年)に描かれた2枚の浮世絵の中だけ。天保時代にそういう名の歌舞伎役者が実在していたというのは、はっきりとした事実なんだけど、それ以外には文献的資料が残っていないから、彼がいつ生まれていつ亡くなって、どんなキャラクターだったのかというのは正直なところわからないの。でも、浮世絵を見ると、脇のいい役を押さえているから、主役クラスにはなれなかったかもしれないけれど、江戸を魅了した“渋くていい脇役”だったんじゃないかと推測されるわね。
ちなみに、吉十郎が芝居小屋の中の布団部屋に住んでいたのをみて、“歌舞伎役者というのはみんな芝居小屋の中に住んでいたんだ”と思った人もいるかもしれないけれどそれは間違いで、江戸歌舞伎の役者はなんせトップの名題(なだい)クラスともなると「年間に千両稼ぐ」というぐらいだから、ある種のお金持ちなの(※その日の演目を紹介したものを『名題看板』といい、名題看板に名が載るような役者のことを『名題(役者)』という)。だから、ちゃんといい屋敷を建てて自分もそこに住み、弟子の一部を住まわせて生活しているというのが本来あるべき姿なんだけれど…吉十郎がそういう生活をしていないのは、身持ちを崩してカミさんにも出て行かれたみたいなシチュエーションを誇張するため。地方をまわる時に楽屋へ寝泊まりするということはあったけれど、劇場に寝泊まりするというのは本来ありえないことで、ああやって全員が住んでいるわけじゃないのよ。
歌舞伎役者というのは、澤村田之助なんかもそうだけど、親が役者で子供も役者で…と代々続いていくのが普通で、歌舞伎の家系でないところから『名題』になるというのは非常に難しいことなの。でも、吉十郎という人を調べていくと、普通なら前後に何代もいるはずなのに、誰ひとりとして浮かび上がってこない。ということは、たぶん一代限りの人だったらしいということで、親がそういう家系の血筋じゃないだろうなという予測がつくの。最後に、与吉くんが「いつか二代目吉十郎になる」と決心していたけれど、歌舞伎の家系でない家の息子が親の名前を継ぐというのは、非常に困難なことよね。この先、与吉くんを田之助も応援していくのかもしれないけれど、きっと道のりは厳しいはず。それをわかった上であえてなろうというのだから、非常に健気なシチュエーションになっているわよね。

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田之助「!白粉って塗るだけで中毒になるようなものなのかい!?」

(写真)

まず、おしろいの原料について話すわね。現代ではもちろん使用されていないけれど、過去に流通していたおしろいの原料には、鉛(亜鉛)と水銀を用いた2種類のものがあって、どちらも焼いて白い粉状にしたものだったの。『亜鉛おしろい』は古代の中国から伝わってきたもので、『水銀おしろい』は国内で生産していたものだったんだけれど、江戸時代になると水銀が産出されなくなったために、また中国から輸入された『亜鉛おしろい』が主流となったのね。主におしろいを使っていたのは、女性と歌舞伎役者。女性はあばたを隠すため、歌舞伎役者は暗い舞台上で表情を目立たせるために使っていて(女形は女性らしくみせるという意図も)、それぞれ目的は違うんだけれど、おしろいを厚く塗ることの効果は得られていたわけ。その時代によって美学というのも異なるけれど、江戸時代はとにかく白いほど美しいとされて、「色白は七難隠す」という言葉もこの頃から存在していたぐらいなのよ。
ただ、そのおしろいが安全かというと…これが鉛中毒というものを引き起こす原因となっていて、この時代にはそれが原因とは知らずに早死する人も多かった。特に、歌舞伎役者の場合は全身に塗ったりするから、ベッタリと量も半端なく使うじゃない。落とす時にも石鹸なんてないからお風呂の中でゴシゴシこするだけで、結局落としきれずに中毒症状(胃腸病、脳病、神経麻痺など)を起こす人もいたでしょうね。
ちなみに、この鉛中毒のせいで命を落とした赤ちゃんも、当時はたくさんいたといわれているんだけれど…それは、お化粧したお母さんの顔や胸元をなめてしまって、知らず知らずのうちにというパターン。幼児の死亡率が非常に高い時代だから、その何パーセントがそれで命を落としたかはわからないけれど、おしろいがそんなに危険なものだということを、誰も気づかずに使用していたのよ。
この有毒なおしろいが使われなくなったのは、西洋から『練りおしろい』といった一種のファンデーション系のものが入ってきたから。こちらのほうが塗った時に美しいということで、徐々に使われなくなっていったみたい。

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吉十郎「一日だけでいい。朝比奈をやらせてくれって座頭に頼んじゃもらえねえか」

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「朝比奈」というのは、いわゆる『曾我物語』と呼ばれる歌舞伎の演目に登場する人物の名前。江戸歌舞伎では、正月の1、2月に曾我物語を上演するというならわしがあって、お決まりで必ず曾我をやるんだけれど、これはなぜかというと、曾我物語というのは鎌倉時代に実際に起こったとされる曾我兄弟の仇討ちを描いた作品で、『仇討ち』という武士の本懐を扱った、お正月に相応しい“めでたい演目である”とされていたからなの。
毎年、三座(中村座・市村座・守田座という、江戸時代中期から後期にかけて、江戸町奉行所によって歌舞伎興行を許された芝居小屋のこと)とも曾我物をやるんだけれど、どこも同じ内容のものを上演してもお客が来ないでしょう?だから、三座とも毎回脚本を変えて、その年によって違う曾我を脚色していくわけ。だから、曾我物というのはたくさんあるのよ。実は、『助六』というのも、曾我物のひとつであるということを、みなさんはご存じかしら?あの物語に出てくる“助六さん”というのは、曾我兄弟のひとり(曾我五郎という弟のこと)なんだから。そうした中でも人気があり、内容が洗練された脚本(例えば、今回扱った「寿曾我対面」など)は名作として受け継がれ、現代でもいまだに上映されているのよ。
ちなみに、歌舞伎の上演サイクルは基本2ヶ月なんだけれど、江戸時代は好評だとロングランをやるの。長いと半年ぐらい、同じ演目を上演し続けることもあるのよ。ただ、その途中で、微妙に配役を変えることもあったようなので(役者の都合や、人気のない場合など)、今回は3月から吉十郎が朝比奈を演じるというシチュエーションにしてあります。

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山田先生への質問は締め切りました。たくさんのご応募をいただき、ありがとうございました!