寺田的 世陸別視点

第16回2013.08.14

イシンバエワ劇場のクライマックス。
お馴染みのルーティーンは見納めなのか?

寺田的 impressive word
13th AUG.エレーナ・イシンバエワ
「今日の金メダルは、最もいとしい金メダルです。もう一度エフゲニーと頑張り始めたことで、私は自信を取り戻すことができたの」


●5m07の世界記録への挑戦
ルジニキスタジアム全体が、エレーナ・イシンバエワ(ロシア)の一挙手一投足を注視していた。第4日最後のトラック種目である男子400mが終わった21時51分。このときのために、すべての環境が整えられたかのようだった。イシンバエワ劇場がクライマックスを迎えようとしていた。

その数分前、4m89で3大会ぶり3度目の世界陸上優勝を決めた。3シーズン低迷した女王が、地元の世界陸上で見事な復活劇を演じたのである。そこで競技を終えても不思議ではなかったが、イシンバエワは5m07と、自己の持つ世界記録を1cm上回る高さにバーを上げた。

実際のところ「疲れもかなりあった」と言うが、世界新への挑戦はファンと、自分を支えてくれた人たちへの感謝の気持ちの表れだったのだろう。室内を含めると世界記録更新28回。女鳥人は「世界記録は私の名刺代わり」と言ったこともあった。
ピットに立つと笑顔を見せ、スタンドに手拍子を要求した。2つとも、4m89まではしなかった行動である。
「トラックにいた選手は私ひとりだけで、観客全員が私に集中していました。驚くべき状況だったと思うわ」
ただ、その後はいつものイシンバエワだった。ポールを何度もせわしなく握り直し、自身に言い聞かせるように、何かをしきりにつぶやき続けた。
「『私はもっと跳べる』『自分を信じて』といった感じかしら」

5m07への挑戦の1回目は、ポールをボックスに突っ込んで曲げたところまではいつもと同じように見えたが、ポールの反発に乗って倒立姿勢にまで持って行くことができず、バーの下をくぐった(厳密には、ポールが曲がったところから違いがあったわけだが)。
すぐさまトラックを横切った。これも、いつものイシンバエワの行動だ。コーチ席のエフゲニー・トロフィモフ・コーチとディスカッションをするためである。

●トロフィモフ・コーチとは?
トロフィモフ・コーチはイシンバエワ劇場の極めて重要な舞台装置だった。同コーチなくして、イシンバエワは存在しなかったと言っていい。
ボルゴグラード出身のイシンバエワは15歳のときに、トロフィモフ・コーチに見いだされて棒高跳選手としてのキャリアをスタートさせた(それまでは体操選手)。2年後に世界ユース選手権、その翌年には世界ジュニア選手権に優勝し、21歳で出場したパリ世界陸上は銀メダルと成長した。翌2004年のアテネ五輪は金メダルと、22歳で世界の頂点に立った。

2003年の4m83から始まった世界記録更新は、2005年のヘルシンキ世界陸上優勝時に5m01まで達した。女子選手初の5mジャンパーを育てたのが、「女子を指導するのは私が最初だった」(イシンバエワ)というトロフィモフ・コーチだったのだ。

女子棒高跳が最初に行われたのは1999年のセビリア世界陸上。優勝記録は4m60だった(それでも世界記録)。レベルが低かった同種目をメジャーにした師弟の功績は大きい。
しかし、イシンバエワは2005年のシーズン終了後に、男子世界記録保持者のセルゲイ・ブブカ(ウクライナ)を育てたヴィタリー・ペトロフ氏にコーチを変更した。拠点もボルゴグラードからモナコに移したのである。

記録は2シーズン停滞したが、新しい技術に移行するのに時間を要したとも解釈できた。それでも2007年の大阪世界陸上で2連勝。2008年には世界記録を3年ぶりにマーク。そのシーズンだけで3回も更新し、3回目の5m05が北京五輪だった。

だが、翌年のベルリン世界陸上で記録なしの失態を演じた。棒高跳では時折り見られることだが、それまでのイシンバエワにはなかったこと。直後の大会で5m06と世界新を跳んだが、翳りが見え始めたのが2009年だった。

2010年は室内競技会には出場したが、屋外では1試合にも出なかった。2011年は4m76がシーズンベストで、テグ世界陸上は6位と敗れた。
昨年のインタビューでイシンバエワは、「2010年にバーンアウトしてしまったんです」と話している。「およそ10年間、屋外シーズンも室内シーズンも戦い続けて、私はすべてに疲れていました。体的にも、精神的にも」

テグ世界陸上後にイシンバエワの方からトロフィモフ・コーチに連絡を取り、再び同コーチのもとでトレーニングを開始した。2012年2月には5m01の室内世界新(当時)をマーク。3年ぶりに5mジャンプを見せた。
屋外シーズン前に故障をした影響でロンドン五輪は3位と敗れたが、トロフィモフ・コーチの元に戻った2シーズン目で、完全復活を遂げてみせた。

●ルーティーンの理由は?
5m07の1回目を失敗し、トロフィモフ・コーチとの打ち合わせを終えたイシンバエワは、待機ベンチの自分の場所に戻った。21時56分だった。他に選手がいないということは、全ての観客の視線と、何百台ものカメラが彼女を追っていることになる。そんな状況のなか、いつものルーティーンに入った。

ジャージを着て仰向けに寝そべり、両脚はベンチの上に乗せる。しばらくして両脚を地面と垂直に立てて震わせる。七種競技の表彰式が始まり、国家が流れるときちんと起立する(これはルーティーンとはいえないが)。シューズのひもを縛り直し、ジャージを脱ぐ。そしてピットに向かった。
選手が多く残っていれば待ち時間は10分、20分と長くなる。イシンバエワが挑む最初の高さまで、30分以上待つこともあったように思う。そういうときは寝そべっている時間が長くなり、大きなタオルなどをかぶって、自身を外界から完全に遮断する。

しかし、選手が1人だけになると持ち時間は5分。短縮バージョンのルーティーンを行ったわけである。寝そべっている時間はほんの少しとなり、ベンチに座るよりも体力的に回復するとは思えない。メンタル的に、同じことをしないと落ち着かないのだろう。

イシンバエワの行動には、精神面重視の傾向が感じられる。バーンアウトしてコーチを変更したのも、メンタル面の理由が大きかったように思われた。昨年のインタビューでトロフィモフ・コーチについて、イシンバエワは次のように話している。
「私はエフゲニーとともに棒高跳選手として成長しました。彼は天才なんです。彼は私のことを娘のように愛してくれています。私も単にコーチとは考えていません。コーチであり、友人であり、2番目の父親です。彼と一緒ならどんな状況でも100%の自信を持てます」

5m07の2回目は、跳躍が右に流れて大腿部付近をバーに当てて落とした。次の5m07の3回目への挑戦が、イシンバエワにとって現役最後の試技となる可能性もあったが、いつもと同じようにトロフィモフ・コーチのところに駆け寄るルーティーンに入った。
「そこがもう、彼女の跳躍の一部になっているんでしょうね」と、為末大さんは言う。

●出産後に復帰プラン
5m07の3回目もバーを越えることはできなかったが、跳躍後のイシンバエワはまっすぐにトロフィモフ・コーチの元に走り、固く抱き合った。

イシンバエワ劇場はまだ終わらない。ロシア国旗を纏ってウイニングランを行い、知り合いを見つけると叫びながらスタンドに駆け寄って抱擁を交わす。熱心なファンにサインもする。カメラマンたちの要望に応えてにわかフォトセッションも数回。審判たちとの記念撮影にも応じていた。
テレビのインタビューエリアに入ったのが22時33分。世界各局のテレビ局の取材に答えて行き、メダリスト会見が始まったのは23時46分だった。会見中も何度かトロフィモフ・コーチのことに言及した。

「今日の金メダルは、最もいとしい金メダルです。なぜなら北京五輪のあとの私は、多くの問題と失望と故障を抱えていました。自分を信じることができなかったの。しかし、もう一度エフゲニーと頑張り始めたことで、私は自信を取り戻すことができたんです」

気になるのは今後のイシンバエワだ。地元の世界陸上を花道に引退するのか、リオ五輪を目指すのか。ここまでいくつかの報道がされてきた。
「ここで引退するとは言っていませんよ。今年はあと2試合、ストックホルムとチューリッヒのダイヤモンドリーグに出場します。でも来年は、私を見られないでしょうね。子供を産みたいと思っているの。そしてリオ五輪を目指してカムバックします。それができないと判断したときは、正式に引退を発表します」

あのルーティーンをもう一度見てみたいと思うが、イシンバエワが母親になったとき、ルジニキスタジアムで見たルーティーンとは違ったものになっているかもしれない。

寺田 辰朗(てらだ たつお)プロフィール

陸上競技専門のフリーライター。
陸上競技マガジン編集部に12年4カ月勤務後に独立。
専門誌出身の特徴を生かし、陸上競技の詳しい情報を紹介することをライフワークとする。
一見、数字の羅列に見えるデータから、その中に潜む人間ドラマを見つけだすことは当代随一。
地道な資料整理など、泥臭い仕事が自身のバックボーンだと言う。
選手、指導者たちからの信頼も厚い。AJPS(日本スポーツプレス協会)会員。

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