寺田的 世陸別視点

第1回2013.07.10

10年ぶりの世界陸上。
“全盛期”とは違う練習で“完全復活”を目指す野口みずき・前編

●世界への扉を開けたパリ、そして復活のモスクワに
2003年パリ大会以来10年ぶりの世界陸上出場となる野口みずき(シスメックス)。野口自身はパリ大会とモスクワ大会の“違い”を、どのように感じているのだろうか。
「パリは世界への扉を開いた大会でした。世界ハーフには出場していましたが(1999〜2001年に2位、4位、4位)、マラソンでは初めての世界大会。すごく興奮しましたし、そこからスタートできたと思っています。モスクワは10年ぶりの世界陸上。そこで結果を出せたら、本当の意味での“復活”です。もう一度、世界と戦うスタートにしたいですね」

国内大会で2連勝してパリ大会に臨んだ野口は、キャサリン・ヌデレバ(ケニア)に19秒差で銀メダル。その成績で翌2004年のアテネ五輪代表に決定し、アテネではシドニー五輪の高橋尚子に続いて金メダルを獲得した。2005年には今も日本記録として残る2時間19分12秒をマーク(当時世界歴代3位)。北京五輪代表を決めたのは2007年東京国際女子。その時点でマラソンは6戦して5勝。負けたのは銀メダルのパリ世界陸上だけと、女子マラソン史に残る快進撃を続けていた。

だが、2連勝を目指した北京五輪直前に左脚付け根を故障。欠場を余儀なくされ、その後も長期間の戦線離脱を強いられた。思うように走れない日々に、心が折れかけたことが何度もあったという。昨年3月の名古屋ウィメンズが4年4カ月ぶりのフルマラソン。ブランクの長さから、野口本人も「不安の方が大きかった」と言う。
そこで6位(2時間25分33秒)となり、「また42.195kmを走る場所に戻ってこられた」と涙を流したが、ロンドン五輪代表には届かなかった。名古屋ウィメンズ後にはヒザを故障して、再度ブランクが生じた。出場を予定していた今年1月の大阪国際女子は、直前の体調不良でキャンセル。完全復活への道のりは多難だった。

野口のマラソン全成績

回数 年月日 大会 順位 記録 備考
1 2002/03/10 名古屋国際女子 1 2.25.35. 初マラソン歴代2位(当時)
2 2003/01/26 大阪国際女子 1 2.21.18. 国内最高記録
3 2003/08/31 パリ世界陸上 2 2.24.14.  
4 2004/08/22 アテネ五輪 1 2.26.20.  
5 2005/09/25 ベルリン 1 2.19.12. 日本記録
6 2007/11/18 東京国際女子 1 2.21.37.  
7 2008/08/17 北京五輪 棄権  
8 2012/03/11 名古屋ウィメンズ 6 2.25.33.  
9 2013/03/10 名古屋ウィメンズ 3 2.24.05.  
10 2013/08/10 モスクワ世界陸上      

それでもあきらめないのが、野口みずきという選手。今年3月の名古屋ウィメンズで3位(2時間24分05秒)となり、10年ぶりの世界陸上代表を決めた。
「70〜80%までは戻ってきて、“全盛期”と同じように強気の走りができたのは良かったと思います。距離的な練習が不足していて最後まで走りきれませんでしたが、手応えは感じられました。“完全復活”へのステップになると思います」

野口のマラソン歴には、不思議と符合する部分がある。初マラソンが2002年名古屋国際女子で、ブランクから復帰したのが、10年後の名古屋だった。“完全復活”の舞台は、10年ぶりの出場となる世界陸上というシナリオを期待してしまう。
 
●まったく違った北京五輪前の練習と、2013年名古屋前の練習
いつの頃からか野口は、“全盛期”という言葉を使うようになっていた。スポーツ選手にとって、現役中には使いたくない言葉だろう。だが、今年の名古屋ウィメンズ終了後の取材中にも、何度も口にしている。ブランクを克服したとはいえ、練習のレベルが明らかに違っていた。

1月に体調を崩したため、一番走り込みたい時期の距離走が不足していた。廣瀬永和監督は「2時間21〜22分では走れない。でも、2時間24分前後なら」と名古屋ウィメンズの結果を予測していた。
野口はその状態でも出場に踏み切った理由を、次のように話した。
「40km走が足りないと思いましたが、2月に入って30kmや20kmでは質の高い練習ができ、“全盛期”と比べても遜色ありませんでした。去年の名古屋は不安と半々でしたが、今年は楽しみの方が大きかった。なにより、もう一度、日本代表で走りたい気持ちが強かったんです」

“全盛時”の野口は距離を走り込むことで、自信をもってレースに臨んでいた。40km走など距離走のタイム設定も、相当に高いレベルだった。だが、北京五輪のあった2008年で30歳。若い頃とまったく同じように練習を消化するのは難しくなっていた。
「それでも北京五輪の前はがつがつやっていました。2連勝したいという気持ちが、いつの間にか自分を縛っていたんです。体の声を無視して、自分の気持ちだけで練習していました。詰め込んだ練習だったと思います」
直前のサンモリッツ合宿では、脚の付け根に違和感を感じながらも頑張っていた。やがて脚を悲鳴をあげ、五輪欠場、長期戦線離脱の重傷となって現れてしまった。

その点、今の野口は精神的にもゆとりがある。焦る気持ちや、それに伴う走り過ぎが逆効果となることは、この10年間でイヤというほど経験した。もう一度世界で、の気持ちは10年前と同じくらいに強い。だが、20代半ばと35歳となった今では、そこに到達する道筋は違うものをイメージできる。
以前の野口だったら、今年の名古屋前の練習では自信を持ってスタートラインに立てなかったはずだ。
「今回は距離の練習ができていなくても、長年の蓄積と経験で走れると思いました」
でも、と付け加えた。
「それだけでは最後まで行けないことが、名古屋ウィメンズのレースでわかりました」
しかし、マラソンに魔法の練習があるわけではない。メディアは「年齢に見合った練習で」とか「経験でカバーして」と文字にするが、それが簡単にできるものでないことは現場が一番よくわかっている。廣瀬監督も「(疲労をためないために)リカバリーは考慮しないといけないが、野口が世界のメダルを目指すのなら、そのレベルの練習が必要。以前のように継続して練習し、継続してレースに出られるようにならないと」と記者たちに釘を刺していた。

>>「野口みずき」後編へ

寺田 辰朗(てらだ たつお)プロフィール

陸上競技専門のフリーライター。
陸上競技マガジン編集部に12年4カ月勤務後に独立。
専門誌出身の特徴を生かし、陸上競技の詳しい情報を紹介することをライフワークとする。
一見、数字の羅列に見えるデータから、その中に潜む人間ドラマを見つけだすことは当代随一。
地道な資料整理など、泥臭い仕事が自身のバックボーンだと言う。
選手、指導者たちからの信頼も厚い。AJPS(日本スポーツプレス協会)会員。

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