寺田的 世陸別視点

第7回2013.07.29

普段着の“ピーキング”で6位入賞を目指す川内優輝。
モスクワ用の“強化”が成功すればメダルの期待も・・・後編

●2年間の経験による強化
2年前のテグ世界陸上では18位に終わったが、2度目の出場となるモスクワでは「6位入賞が目標」とよどみなく言い切る。
「調整期間のバージョンアップはしない」のならば、その前の強化の段階で底上げがなされていなければ目標達成は不可能だ。川内自身は2年前と比べて「海外レースの経験が一番の違いですね」と強調している。

「テグのときは3回目くらいの海外レースでしたが、今回は10回目くらい。時差対応や外国での過ごし方やもわかってきましたした。かなりの数のレースに出てきたので、競り合いの時にどうすれば勝てるか、対処法が増えています。展開がこうなったらこう対処する、そっちの展開になったらこうした方が良い、という感じでレースの幅がすごく広がりました。“経験”の部分を一番積んでこられたと思っています」

国内のマラソンにも強豪といえる外国人選手が出場するが、それでも、日本選手がかなりの割合を占める。それに対して海外に単身乗り込んだ場合、「周りはアフリカ選手が20人」という状況が当たり前となる。ペースに波のあるアフリカ選手が、代わる代わる先頭に立ったらどうなるか。オリンピックや世界陸上に近いのは、やはり海外のレースなのだ。

そういったレースにピーキングなしで出場する。万全でない状態のなかでアフリカ選手と競り合った経験は、世界陸上のレース終盤で、疲労が極限に達したときのシミュレーションとなっている。

3月のソウルは4位となって自信をつけることができたが、「もったいないレースをしてしまった」と悔やむ部分もあった。30kmの給水で一瞬の油断があり、アフリカ勢に引き離されてしまった。追いつくのに2kmほどかかり、そこでエネルギーを使ってしまったのだ。追いついたところで再度スパートされて対応できなかった。

「給水で離されずに集団につくことができたら、2時間7分台は行けたと思います。モスクワでも何km地点かは予測できませんが、誰かが必ずスパートする。それにつく選手のなかで何人かは、5km行ったら落ちて来ます。脚をためながら(余裕を持ちながら)追えれば、そういった選手をとらえられる」
現時点でもレース展開さえ誤らなければ、入賞を狙える手応えは十分にある。

●2つの初めての試み
今年に入ってから新しく試みていることもある。ここでは体重調整と“期分け”の2つを紹介したい。

体重に関しては、「多少がっちりしていた方がスタミナ面でプラスになる」という持論を持っていた川内だが、昨年12月の福岡国際で6位(2時間10分29秒)となったときに疑問を感じた。当時の体重は64kg。今年1月にマラソンを科学的に研究している大学の先生からアドバイスがあり、「体重を絞れただけで2時間7分台は行く」と言われたという。
「科学がそう言うならやってみるしかない、と思いました。だからといって急激に体重を落としたら、絶対にスタミナ不足になる。7カ月をかけてじわじわ絞ってきました」
2〜3月の連続2時間8分台は、体重コントロールもプラスに働いた。

7月の蔵王合宿時点では62kg。見た目にはもう少し絞れているように見えた。「良い絞り方をしている証拠」という声もあったが、川内自身は「あと0.5kg絞れたらベストだと思う」と、最後の課題として取り組む。

また、期分けを今回ほど明確に行ったのも初めてだった。5月をスピード養成月間と位置づけ、ハーフマラソンを5本走った。6月は走り込み月間で、フルマラソン1本と50kmのウルトラマラソンを1本。週末に日光などで市民ランナー仲間と行う合宿でも、走り込んだと思われる。

期分けは大きなスパンのピーキング、ととらえることもできるが、7月には「スピードとスタミナの融合」をテーマとした。7月7日のゴールドコーストマラソンは2時間10分01秒。2時間9分台には惜しくも届かなかったが、本番のレース1カ月前にここまで良いタイムを出したことはかつてなかった。

「藤田敦史さんが強かった頃、マラソンの1カ月前に40km走を2時間3〜4分でやっていらしたそうです。それと同じ水準でゴールドコーストでは走れたことになります」
藤田は2時間06分51秒の前日本記録保持者。2時間6分台の力をモスクワで発揮できれば、メダルに近づくことになるのだが……。
「僕はそこまで楽観的じゃないので」と、川内自身は慎重である。

●精神的なピーキング
「今のやり方、マラソン前の3週間の持って行き方でも2時間7分台までは出すことができる手応えはあります。それが6分となったとき、このやり方で良いのかどうか」
経験をもとにレベルアップができていることや、体重調整が上手くいっている自信はある。だが、それだけでメダル、6分台と言うことはできない。最後の3週間はメニューが固定されているから、本番の状態をある程度は予測できる。
ただ、川内の計算に入っていないことが1つあるのではないか。

蔵王での取材中、「モスクワでは川内さん自身が楽しんでほしい」と、インタビュアーに話を振られたシーンがあった。
「それはダメですね。日本代表として走るときだけは、楽しむような心境にはなれない。楽しむレースは他にいくらでもありますが、代表だけはそういう感覚では走れません」
「そうですね」と受け流すこともできたが、川内にとって、それはできないことだった。以前から「代表になっただけで満足する選手にはなりたくない。日本代表の自覚を持って走りたい」と話している選手である。

川内の強さは、市民ランナー的な取り組みを完全に自分のスタイルとした点にあるが、頑強な意思の持ち主でなければトップ選手に対抗できるとは思えないだろう。「自分は環境的に厳しいから」と、どこかで折り合いを付けてしまう。実際、実業団選手で川内スタイルに転身することを考えた選手もいるが、そういった部分の不安をぬぐえず断念した例もある。

その点川内は、「これで走れる」と思ったら、そのことに対して少しの疑念も持たずに実行してきた。それはレースでも同じ。ロンドン五輪6位の中本健太郎(安川電機)とデッドヒートを演じた別大マラソンでは、何度も引き離されそうになったが、気持ちで一歩も引かなかった。

3月のソウル国際はアフリカ勢を相手に4位と健闘した。
「ベスト記録では13番目でしたが、粘って走ったら4番になれました。世界陸上も同じように、持ちタイムで劣っていても走り方次第で4位、5位、6位という順位に入っていけると思います。そういう自信は失わずに走りたいですね」

過去最高の“精神面のピーキング”ができれば、本人が予想する以上の力を発揮する可能性は十分。川内優輝のこれまでの生き様と実績が、その裏付けとなっている。

寺田 辰朗(てらだ たつお)プロフィール

陸上競技専門のフリーライター。
陸上競技マガジン編集部に12年4カ月勤務後に独立。
専門誌出身の特徴を生かし、陸上競技の詳しい情報を紹介することをライフワークとする。
一見、数字の羅列に見えるデータから、その中に潜む人間ドラマを見つけだすことは当代随一。
地道な資料整理など、泥臭い仕事が自身のバックボーンだと言う。
選手、指導者たちからの信頼も厚い。AJPS(日本スポーツプレス協会)会員。

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