特集

2022年10月2日/9日放送「北海道・北東北の縄文遺跡群」

海を越えて交流した縄文の暮らしと文化

縄文人が食料や木材を確保するために栽培、管理したクリ。クリの木は、縄文人の手によって津軽海峡を越えて北海道に植えられたのです。

──海の恵みの話がありましたが、縄文人は森からはどんな恵みを得ていたのでしょうか?

福士:先ほどの二ツ森貝塚からは、動物の骨も出土しています。中には、精巧な彫刻が施された鹿の角もありました。三内丸山遺跡からも矢じりなど、多くの狩猟道具が見つかっています。また狩猟だけでなく、クリなどの木の実も採集していました。縄文人はクリの木を栽培し、クリの森を作るという技術を編み出したのです。もともとブナやドングリの森だった場所が、縄文人がやってくるとクリの森に変化し、人がいなくなるとまたブナなどに戻ったのです。このようにして狩猟採集民が1万年以上もの長期にわたって定住している例は世界でも珍しく、高く評価されています。

矢じりやナイフなど、狩猟の道具が遺跡から多数出土しています。

──狩猟・採集しながら定住していた縄文人にとって、クリは重要な植物だったのですね。

福士:クリの実を得るためだけでなく、建物の木材としてもクリの木は利用されていました。クリの巨木は心のよりどころのような存在だったと考えられていて、三内丸山遺跡の掘立柱建物でも、その柱にクリの木材が使われていました。またクリの木によって、北海道と北東北の縄文人が交易していたことがわかっています。元々、北海道にはなかったクリの木が、縄文時代に交易によって津軽海峡を越え北海道に渡り、集落の周りに植えられていました。

クリは縄文人にとって重要な植物でした。三内丸山遺跡にある大型掘立柱建物跡の柱穴からは直径1mもある巨大なクリの木が発掘されました。

──縄文時代に海峡を挟んで交易があったとは驚きです。

福士:クリ以外にも、津軽海峡を挟んだ両地域で共通点があります。円筒土器は筒状の形をした、縄文前期から中期にかけて作られた土器なのですが、青森県の三内丸山遺跡のものと、北海道の大船遺跡で見つかったものはよく似ているのです。

──北海道と北東北の縄文遺跡には、そんな共通点があるのですね。

福士:北海道・北東北にまたがる縄文遺跡の特徴としては、巨大なストーン・サークルが多くある点も挙げられます。秋田県の大湯環状列石にある2つのストーン・サークル、野中堂環状列石と万座環状列石はどちらも国内最大級のストーン・サークルです。特に万座環状列石は、直径は52mもあり、およそ6500個の石で作られています。その石は4000年前の縄文時代当時のままです。元々は遺跡から4kmほど離れた河原から運ばれたことがわかっています。選び抜かれた石を周辺に暮らす人たちが力を合わせ運ぶことで、地域社会の結束の場となったと考えられています。

巨大なストーン・サークルは北海道・北東北にのみ見られます。これらの地域の遺跡には、土器などにもさまざまな共通点が見られます。

──何千年も前に縄文人が作ったストーン・サークルが、現在もその形を残しているとは感銘を受けますね。

福士:はい。ほかに縄文人が残したものと言えば、やはり土偶です。縄文人は、土偶に子孫繁栄や豊穣などの意味が込められていたと考えられます。青森県の亀ヶ岡石器時代遺跡は左脚が欠けた遮光器土偶が出土したことで有名ですが、ほかにも同じ縄文時代晩期の土偶がいまも発掘され続けています。番組では、昨年発掘されたばかりの“ニューフェイス”の土偶も紹介します。遮光器土偶に比べると、人に近い造形で、親近感を覚える顔だと私は思いました。

──縄文人の暮らしに迫る番組、楽しみです。最後に視聴者の皆さんへメッセージをお願いします。

福士:今回の取材を始める前は、縄文というと「原始的な生活をしていた時代」というイメージを持っていましたが、さまざまな縄文遺跡を巡っていくうちに、食生活やものづくり、先祖を敬う心など「縄文の暮らしは現在の日本の暮らしと変わらない」という気持ちに変化していきました。番組を通じて現代人とも重なる縄文の暮らしや文化を感じていただければ嬉しいです。

土偶や土器、石や鹿角で作られた数々の道具、さまざまな建物跡など、縄文人の暮らしや文化を感じることができる映像を2週連続でたっぷりお届けします。

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