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ロシア皇帝の至宝展〜世界遺産クレムリンの奇跡〜

開催期間:3/20(火)〜6/17(日)


ガイドツアー

第4章「17世紀 ボリス・ゴドゥノフからピョートル大帝まで」

17世紀初頭のロシアは凶作が続いた結果、たいへん過酷な状況に置かれていました。1598年に皇帝フョードルが没しボリス・ゴドゥノフが全国会議で選出されたルーシの最初の皇帝になりましたが、ゴドゥノフの死後は皇帝の玉座を狙う者が次々と現れ政権が失墜しました。1652年ウスペンスキー大聖堂でノヴゴロドの大主教ニコンが総主教の玉座に就き、教会改革を始めると、社会層が古儀式派の信者と改革派とに分離し、聖職者の大多数はニコンによる改革を受け入れず、民衆も古い信仰を支持しました。
ウスペンスキー大聖堂では皇帝の戴冠式が以前と変わりなく行われ、君主の権力を強めようとして宮廷儀式はより厳かに構成されました。17世紀、国家のイデオロギーにおいて重要な役割を果たしたのが、キリスト教の聖遺物を崇拝することでした。16世紀から聖遺物はコンスタンティノープルや東方ギリシアから招来され、モスクワは「第三のローマ」や「第二のエルサレム」とみなされました。
外交も重要な役割を果たし始めます。17世紀、デンマーク、オランダ、スウェーデン、ポーランド、イギリスからたくさんの贈物がロシア皇帝に奉呈されました。甲冑、刀剣と火器は価値ある品とみなされ、イランやトルコからは祝典用の騎兵の装備が多くもたらされました。
17世紀中頃にはクレムリン武器庫の工房における武器の製造も急速に拡大し、職人の数は1656年から1661年まで3倍に増え、ほぼ100人になりました。工芸品の製作において、モスクワは17世紀全般にわたり指導的立場にあり、ロシア各地からの最高の画家、武器職人、金属細工師、金や銀製品の職人が、イギリス、オランダ、ドイツ、ポーランドから招かれた外国人と共に、クレムリン工房で働き、宮殿の間や聖堂を飾りました。
一方、ポーランドとスウェーデンによる干渉の後、1613年にミハイル・ロマノフが皇帝の座に選び出されロマノフ朝が誕生しました。
新しい王朝の権威を誇示するために、クレムリン工房はさらに拡大されます。モスクワの職人は金銀製品をニエロで装飾することに秀で、またすばらしいエマイユ芸術の作品を作りました。17世紀前半は宝石が主役でしたが、17世紀後半は多彩な透明のエマイユの豊富さが、宝石の輝きを凌駕しました。
聖堂の内部装飾においてはイコンが最も重要な地位を占め、その特色はイコノスタス(聖障)に見られます。17世紀にイコンはロシア人の生活に定着し、修道院への主要な寄進物になり、高位聖職者とイコン画家はイコンを、皇帝と総主教、その周辺の人々に進呈しました。
16世紀に武器保管所であった武器庫は17世紀後半には、絵画と工芸のためのいわば高等技能学校になりました。1620年頃イコン庁が創設され、17世紀後半には風景画法の画家も現れました。また正教会の聖堂の内部ではイコンと並んでその覆いを飾る刺繍が大きな地位を占めました。
17世紀の後半は、ロシアの世俗芸術の形成過程において重要な段階にありました。モスクワでは皇帝や総主教の官殿に国の芸術的な力が集中しました。ここから精神的・芸術的刺激が生じ、モスクワ郊外や辺境に受け容れられたのです。ロシアの17世紀は、中世から新しい時代に移る始まりでした。統一と全体性の時代が終わり、生活から文学、芸術に至るすべてにおいて、対立と分裂の時代となりました。




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