菊野プロデューサーの無垢なる愛の戯言

僕には映画、本、コミック…大好きな作品がたくさんあります。
それらの作品が僕の創っているTV番組はもちろんのこと
僕の人生や、ものの考え方にも影響を与えていると思います。
そうした僕の愛した作品についての戯れ言です。
『このコラムを初めて読む方へ』

石橋貴明のスポーツ伝説…光と影 第二弾が放送

2014年9月16日

随分と更新がご無沙汰になってしまいました。

来る9月17日(水曜日)夜9時から、「石橋貴明のスポーツ伝説〜光と影」
という番組の第2弾を放送します。
今回は、特に、私にとって思い入れが深い
企画、ラテで言えば、
「プロ野球最大の事件 巨人の大スター怪我させた男の壮絶人生!
“巨人から出て行け・・”非難の嵐と戦力外通告」という企画をやるのですが、
実は、この企画を実現するのに15年近い月日がかかりました。
 ちょっと長くなりますが、そんな個人的な思いを書かせていただきます。

私は、大学時代、読売巨人軍の私設応援団に入っていました。
1989年〜1991年が、その活動のピークでした。(1992年に就職したので)
特に1989年、1990年の2年間は、年間130試合の公式戦のうち、80試合くらい、スタジアムで見ていました。写真は、当時のチケットの、ほんの一部です。



東京ドームを中心に、神宮、横浜、時には、甲子園、北海道シリーズ、1989年は巨人―近鉄の、伝説の3連敗からの4連勝の巨人・日本一でしたが、そのシリーズは、藤井寺球場まで観戦に行って、奇跡の日本一の瞬間を生観戦しました。

そんな、応援団の友人に、高校時代から仲の良かったYという男がいました。
彼は、吉村選手の大ファンで背番号7の半被(はっぴ)を着ていました。
私は、後に、結婚記念日を平成8年8月8日にするくらいの大の原辰徳ファンで、背番号8の半被を着て応援していました。
 
 夕方5時くらいに、東京ドームに行き、ほぼ毎試合、同じ席でYと声をからしながら、応援していました。学生時代で金がなかったので、よく、周囲の応援団のおじさん、お兄さんに食事やビールをご馳走してもらいました。
 
 Yが大好きだった吉村選手は、1988年7月6日、札幌円山球場で、中日・中尾選手の打球を追って、栄村選手と激突し、大怪我を負います。
私は、この試合、TVで見ていました。
この試合は、巨人の楽勝ムードで、吉村はこの試合、通算100号HRを放っています。さらに、3番・吉村のHRの後、4番・原、さらに5番・呂がHRを放つという、クリーンアップ3者連続HRを記録しているのです。
そんな大楽勝ムードの中、守備固めで入ったセンター栄村とレフト吉村の激突事故が起こるのです。

吉村は、3割30本も達成し、原選手の次の4番は、吉村で決まりと言われていました。巨人の左打者のスラッガーといえば、王の次は、松井となりますが、
あの怪我がなければ、王、吉村、松井だったでしょう。
あの怪我がなかったら、吉村は、どれだけすごい打者になったのか?
グランドでおきた怪我である以上、誰が悪いわけではありません。全力プレーの結果は、誰も責めることはできません。
 それでも、当時の巨人ファンは、栄村選手に対し、許せない感情を持ってしまったことは否定できません。

特に、1988年の巨人は、その怪我の起きた試合の時点で首位にいました。
しかし、3番・吉村の怪我による離脱。さらにこの年は、クロマティも怪我で
離脱していたせいもあり、みるみる失速していき、優勝を逃します。
吉村が怪我していなければ、巨人は優勝していたのでは・・・。
そんな思いを皆持ち、その感情の捌け口は、栄村選手へのひどい罵声となっていきました。

 一方、吉村は、再起不能と言われながら、まさに死ぬ思いのリハビリをして、1989年9月に奇跡の復活を果たします。そして翌1990年は、セリーグ・ペナントレースの優勝を自らのサヨナラHRで決めるのです。
 
そのサヨナラHRを、私とYは、ライトスタンドのいつもの席で見ていました。吉村のライナー性の打球が、ライトスタンドに飛び込んできました。
それは自分達の前に飛んでくるような錯覚を覚えました。

 スタンドイン・・巨人の優勝
私とYは、抱き合って、泣きながら万歳して、また抱き合って・・

それから2年後、私はTBSに入社し、AD生活が始まり野球を見に行く回数はめっきり減りました。年に、3、4回行ければよかったのではないでしょうか。
当然、Yに会う機会も激減していきました。

入社して、5、6年たった頃でしょうか。私は「筋肉番付」という番組のディレクターになり、収録に編集にと、会社に泊まりこむ日々が続いていました。
そんな頃でした。Yのお母さんから私に電話がありました。
Yが死んだと。

Yは、確か肝臓だったと思うのですが、あまり体調が良くなく、1996年の
私の結婚式に出席したときも顔色が悪そうでした。しかし、まさか、こんな
急に亡くなるとは。信じられませんでした。

同時に、忙しさにかまけ、連絡を取ってこなかったことに後悔しました。
私はYの棺に、吉村の1990年セリーグ優勝・サヨナラHRの記念テレホンカードと、背番号7のシールの張ったメガホンを入れました。

 そしていつか、Yのために吉村選手の企画をやろうと誓いました。

復帰の後、吉村選手は、代打を中心に活躍しました。しかし、けがの影響もあって、かつての輝きが完全に戻るというわけには、いきませんでした。

1998年、吉村選手が引退します。この東京ドームの引退試合を私は、見に行きました。スタンドに、Yはいなかったけど、かつての応援団仲間とともに、吉村の最後の出場を見届けました。

 翌1999年、私の仕事にも変化がありました。今、「バースデイ」となったスポーツドキュメンタリーの前身番組「ZONE」がスタートしたのです。
そんなとき、雑誌「Number」のある記事が目に留まりました。
それは、髙山文彦さんというライターが書かれた“遥かなる祝祭”という記事で、吉村選手と栄村選手のことを書いた記事でした。
 もう衝撃的でした。吉村の思い・・栄村の後悔・・・
自分でも、このネタをやりたいと強く思いました。

そして解説者になっていた吉村さんに、手紙を書きました。
しかし、当時、解説者になったばかりであることや、TVで語る気持ちでないという理由で、断られたように思います。

 以降、いつか、やりたい、いつかやれないかとずっと思い続けていました。
次の機会は、2010年でした。「ライバル伝説 光と影」という特番の第2弾で
「スポーツ人間交差点」という特番を作ることになり、吉村さん栄村さん、
それぞれにお会いして、企画の相談をさせていただきました。

しかし、様々な事情で実現しませんでした。
その後も機会があれば、この企画を思いましたが、どうしても実現しませんでした。
 
 吉村さんからすれば、あの事故は、グランド上の事故で仕方がないと同時に、
あの事故さえなければと周囲がみな思っていることは、ご本人もわかっており、その事件に対して、いまさら、何をどうコメントすればよいのかという
気持ちがあったと思います。

 一方、栄村さんは、あの事故の後、尋常でない、バッシングを浴び、ある種、人生に影を残した部分も少なからずあったと思います。
あれから26年・・、ようやく事故の記憶も薄れている中で、なぜ、今、語らなければならないのか?  そう、思っていたと思います。

 今回、そんなお二人が、番組の取材に答えていただき、本当に心から感謝しております。そして、二人の触媒となったのが、スポーツ愛あふれる石橋貴明さんの存在だったと思います。
 貴明さんでなければ、お二人は、ここまで本音を語らなかったかもしれない。
そして、今度の放送で、ちょっとでも、ちょっとでも、この事件に関わった
人たちの重荷というか、トゲが抜けたらよいなと思っています。

そして、天国にいるYよ、見てほしい。
君に今回のOAを捧げます。


『菊野浩樹』の写真

菊野浩樹 プロフィール

1968年 5月14日 生まれ
1992年 TBS 入社
「アッコにおまかせ!」「ザ・フレッシュ」「筋肉番付」「ZONE」「世界陸上」「K1ダイナマイト」などを担当。

「バース・デイ」をはじめ、「プロ野球戦力外通告〜クビを宣告された男たち」「ラ イバル伝説…光と影」「プロ野球選手の妻たち」「SASUKE RISING」など、数々のス ポーツ特番やドキュメンタリー番組を手がける。

関連番組一覧

『バース・デイ』
毎週土曜午後5:00〜
『サワコの朝』
毎週土曜午前7:30〜