穏やかな昼下がり。
また一つ長い書状を書き終えた慶喜は、ふう、と息を吐きながら筆を置いた。
「ようやくこれで、半分か」
慶喜が、届いた書状に目を通し始めたのは夜明けから間もない頃。
朝餉を取るために休んだ以外は、ほとんどこの文机の前から動いていないにも関わらず、彼のそばにある棚の上には書状が山のように溜まっている。
(……明日の行幸の準備にかまけて、整理を怠ったのがいけなかったな)
(いや……行幸を言い訳にしてはいけないのだけれど)
何と言っても、帝が御所を出ること自体が二百余年ぶりなのだ。その準備には途方もない時間と労力がかかる。
そして、その行幸に付き従うことになった慶喜は、幕府の要職に就く者として、幕府と朝廷の意思をそれぞれ尊重し、なんとしてもこの行幸を成功させねばならなかった。
「明日のことだけでも頭が痛いというのに……果たして、今日中にこの書状が見終わるのか……いや、弱気はいけないな」
ずっと文机に向かっていたせいで固まってしまった身体を伸ばし、慶喜は気合を入れなおすように息を吐く。
もう一度筆を手に取ると、庭の方からかすかに可愛らしい小鳥の声が聞こえた。
※※※
それからどれくらい刻が過ぎたのか。
集中を途切れさせることなく書状に向かっていた慶喜は、障子の向こうから声をかけられ、ふと顔を上げた。
「慶喜様、烝です。入ります」
「ああ、どうぞ」
返事とともに静かに部屋へ入ってきた山崎は、慶喜の姿を見てわずかに表情を曇らせる。
自分では気づいていないようだけれど、この護衛は思っていることがよく顔に出るのだ。
「……必ず休憩を取ってくださいとお伝えしたはずですが、この感じだと朝からぶっ続けですね」
「めずらしく筆が乗ってしまってね」
「それ、昨日も聞きました。…とにかく、少し休んでください」
漆塗りの皿が文机の上に乗せられ、慶喜はわずかに表情を和らげる。
皿の上には自分の好物の団子が並んでいた。
「烝は、私の休ませ方を良く知っている」
「もう長い付き合いですから。帝の御供で明日はお忙しいんですし、今日くらいはのんびりしてください」
自分の心身を心から案じるようなその言葉に首を横に振ることなどできるはずもなく、慶喜は手元にあった書状をくるくると巻きなおす。
今日中に終わらせてやるつもりだったが、すっかり気持ちは書状から団子の方へ向かっている。
「……ありがとう。じゃあ、烝も湯呑を持っておいで」
「え?」
「一緒に食べるために二本ずつ買ってきたんだろう?」
「ええと、」
少し複雑そうな顔をした山崎の表情から、これが二人分ではなかったことがわかる。
けれど、慶喜は背を押して炊事場に向かわせ、皿に乗った団子を楽しそうに眺めた。
「主の隣で食事など……と、烝なら言いそうだが、ひとりで食べるのはあまりに味気ないからね」
文机の傍らに置かれたお茶に口をつけ、少しだけ渋いそれを飲み下す。
働き通しで疲れていたはずの身体に彼の不器用な優しさがじわりと染み渡り、ああこれなら今日も明日も頑張れそうだ、と慶喜はぼんやりと思った。
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