邂逅前夜

邂逅前夜

晴明の場合
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「たしかに、急ぎの仕事は何もないって言ったけどさ。それにしたってこの扱いはないんじゃない?」
「うるせえな、さっさと手を動かせ」
「うえー…」

薄暗い宝物庫の中で、晴明は蛙が潰れたような情けない声を出す。自分の部屋の整理すらできない彼にとっては、御所の広い宝物庫の整理など、限りなく拷問に近い。

「だいたい、なんで今宝物庫の整理しようなんて思い立ったわけ?」
「お前と同じで、たまたま俺も暇だったからだ」
「ええー……帝の思い付きに俺を付き合わせないでよ。帝が頼めば手伝ってくれる人なんて、ここには腐るほどいるんだからさ」

晴明は文句を言いながら、少し高い場所から、水差しを床に下ろす。
ふわりと舞った塵に、窓から差し込んだ光がきらきらと反射した。

「あいにくお前以外の人間は、三日後の行幸の支度で手いっぱいだ。なんて言ったって二百数十年ぶりの行幸だ。俺も役人も、皆勝手がわからん」
「気楽にやればいいのに」
「そうもいかねえだろ」
「……まあ、そうか」
水差しを丁寧に拭く帝を眺めながら、晴明はそう呟く。そばにあった蔀戸を開けると、ふわりと爽やかな風が部屋に舞い込んだ。
「お前は、どうする」
「何が?」
「行幸の日だ。御所にいるほとんどの人間は俺の参拝に付き合う羽目になるだろうが、お前は…――」
「行かないよ」

帝のほうを振り返った晴明が、淡い笑みを浮かべて言う。
水差しに目を向けていた帝は、晴明の言葉にふと顔を上げた。

「まあ、だろうな」
「来てほしかった?」
「馬鹿言うな。……いらねえよ」

立ち上がった帝が、晴明の手に磨いた水差しを手渡す。
「なにこれ」

怪訝そうな顔をした晴明に、帝は笑いながら言った。

「宝物庫の中もいっぱいになってきたし、お前、この辺にあるもの全部処分して来い」
「は?」
「大切にできるもの以外は手放すってのが、俺の方針でな。さすがに物が増えすぎた。……それに、俺がお前に命令すれば、この大事な時期に御所から離れる理由にもなるだろ」
「……まあ、それはそうだけど。ここにあるものって、そう簡単に処分しちゃっていいの?」
「俺のものだし、いいんじゃねえか、別に」

不要なものを次々床に並べていく帝を眺めながら、晴明はもう一度笑みを浮かべる。
生まれてから一度も御所に出ることがなかった帝が、ほんの少しだけ外の世界に触れる日が来た。そう思うと、なんだか三日後の行幸は、とてつもなく特別な日に思えた。

※※※

「水差しに、壺に、香炉って…ほんと、重いものばっかり渡すんだから」
宝物庫の中を整理し終えた晴明は、鞄の中にいくつかの宝物を詰めて、上賀茂神社へ足を運んだ。
ここは、晴明しか知らない、そして、晴明にしか通れない秘密の扉がある場所だ。
「……三日後には、ここも人でいっぱいになるんだろうな。それに、初めての外の世界……帝の目には、どんなふうに映るんだろう。帰ってきたら、聞いてみようかな」
晴明は、神社の外れにある小さな鳥居の連なった場所で足を止める。そして、一度だけ後ろを振り返って言った。

「一生に一度かもしれない機会だ。……素敵な出会いがあるといいね、帝」

ひらひらと桜が舞い散る中、晴明が鳥居をくぐる。
少しずつ遠ざかっていくその姿は、強い風が吹くと同時に、桜吹雪の中に消えた。

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