文/青野尚子
ルーベンスと言えば「フランダースの犬」。日本では国民的人気を誇るアニメでネロが最後に見た絵が、アントワープにある「聖母大聖堂」にあるルーベンスの祭壇画だとされています。画家を目指していたネロが憧れていたルーベンス、実際に見てみるとやっぱりすごい迫力です。
「聖母大聖堂」(写真1)では中央に《聖母被昇天》、向かって左側に《キリストの昇架》、右側に《キリストの降架》があります。面白いのは《キリストの降架》。三幅対の左パネル裏側に「聖クリストフォロス」が、左パネルに「ご訪問」が、中央に主題である「キリストの降架」が、右パネルではイエスのお宮参りのシーンが描かれています。この4つの絵の共通点は何でしょう? それはすべて、誰かがキリストを支えているということ。「聖クリストフォロス」(写真2)は男の子に川を渡りたいと頼まれ、担いでいるうちにどんどん重くなるのでおかしいな、と思ったところ、男の子は自分がイエスであることを明かし、「あなたは世界を背負っているから重いのです」と告げます。「ご訪問」はイエスを宿した聖母マリアが同じく洗礼者ヨハネを宿したエリザベトを訪ねるシーン。「キリストの降架」では十字架から下ろされるイエスを聖人たちが、お宮参りでは神社に詣でた幼児イエスを司祭が支えます。こんな「隠しテーマ」をさりげなく仕込むルーベンスの力量に、さすが売れっ子画家だけあると思ってしまいます。
日本での展覧会ではこの「聖母大聖堂」の空間をほぼ原寸大、4Kで体感できる展示があります。見上げるばかりの大きさで、ルーベンスや弟子たちの筆遣いまで感じられます。出品作でも劇的な宗教画に注目してください。《キリスト哀悼》(写真3)では棺の上で支えられるキリストの力なく垂れ下がる四肢や悲しみの中、天井から指す光を見上げる聖母のドラマチックな表情が印象的です。人間の奥深いところまでえぐり出すような感情表現は、信者でなくても心打たれることでしょう。
今よりも教会がはるかに大きな力を持っていた当時のヨーロッパ。聖書のワンシーンをこれだけ劇的に描くことができたルーベンスがネロの憧れだったのも納得できます。
青野尚子(美術・建築ライター) 著書に全国の見るべき美術館建築を集めた「美術空間散歩」(共著・日東書院本社)。カーサ・ブルータス、PENなどの雑誌にも寄稿。2017年、21_21 DESIGN SIGHTで開催された「そこまでやるか」展ディレクターを務める。