水戸黄門大学

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パナソニックドラマシアター水戸黄門 40周年第40部記念 スペシャルコンテンツ



うずまさ通信

/撮影所で働く、こだわりの職人さんたちをご紹介します

File.7【和楽(わらく)】

中本 哲(なかもと あきら)さん

民謡や三味線の演奏、宴会の踊りといったシーンは、時代劇になくてはならない分野。
それら「和楽」を担当しているのが中本哲さんです。
「黄門いろはがるた」コーナーでおなじみの神先さんと訪ねました。
このお仕事はいつから?
中本:
もう20年以上前になるかな。
僕は三代目で、初代は祖父の望月太明吉(ためきち)。二代目が父・中本敏夫。
そして、昨年からは息子の敏弘に少しずつ仕事を教えて四代目を継いでもらおうと思ってます。最近は娘の由紀もいろいろ手伝ってくれているんですよ。
神先:
四代も世襲(せしゅう)しているスタッフはほかにいないね。僕が入社した頃はおじいさんの代で、いつも撮影所で着物を着てはったな。
中本:
今もたまに大部屋のベテラン女優さんからおじいちゃんの話を聞きます。
おじいちゃんはもともと鼓や太鼓といった囃し方(はやしかた)で、戦時中は邦楽の楽団として女優さんたちと満州(中国)に慰問に行ったこともあるんですよ。
神先:
僕が一番付き合いが長かったのは、親父さんの敏夫さん。
『水戸黄門』も第1部からやってもらった。よく一緒に飲み歩いたりして遊んだなぁ。
あの巨匠の溝口健二監督に信頼されるくらいいい仕事をしてたんやけど、ゴルフの腕は大したことなかった。オマケに、へんくつでな(笑)。
中本:
ハハハ、僕から見てもへんくつ者でした。
でも、僕はその親父に「おまえはカタブツだから、融通が利く人間にならんといかん」て言われましたけど。
神先:
親子やな(笑)。
でも、この撮影所で作ってる作品は、映画もテレビも「和楽」の分野はすべて中本さんに任されてるから大変やね。
敏夫さんの頃は年間100本くらい映画を作っていたし、その上テレビドラマもあって、それを全部ひとりでこなしてたんだから。

中本:
僕がやり始めた頃はテレビ時代劇全盛期で、1年に350本(350話)くらい撮ってましたね。
今も時代劇やら現代劇、映画と、常に何作品も重なっていて、なかなか休む暇はないです。
洋楽の場合は編集後に音を入れたりしますけど、「和楽」はすべて現場で対応しないといけないですしね。
仕事の進め方はどのように?
中本:
まずは台本を読んで、「和楽」が必要な場所をチェックします。
例えば、三味線や笛の演奏、踊り、お能のシーンなんかがあれば、そのシーンに合った三味線や踊りのお師匠さんを手配し、打ち合わせをして撮影の時に現場で指導してもらう。また、役者さんが唄を唄うシーンがあれば、その唄を探してきてテープに入れて監督などに渡します。
台本を受け取ってから撮影に入るまでの約1週間が勝負!
神先:
映画やテレビの「和楽」は由緒正しい演奏や踊りというよりは、ある程度アレンジが必要だから、そういうことを理解してくれるお師匠さんじゃないとダメなんだよね。
中本:
そうなんです。
奏者や踊り手は個性が強い人が多いから、その人たちと監督の間に入ってうまくやってくれる人。ドラマ作りを面白がるような、柔軟で遊び心がある人でないとダメですね。監督によっても注文はいろいろですしね。
僕が親父から言われた「カタブツじゃダメだ」っていうのが今はよくわかります。
撮影現場ではどんなことを?
中本:
例えば、宴会の踊りのシーンだったら、アップで撮る場合は細やかな動きがいいとか、全体を撮る場合はみんなで手足を大きく動かして欲しいとか、カメラに合わせてお師匠さんに注文を出します。
踊りの場面が1分くらいあれば、その中でどう緩急(かんきゅう)をつけて視聴者を楽しませるかとかね。
1時間のドラマにしたらわずかな時間だけど、ストーリーに合わせてそこをいかに魅力的に見せるかを考えます。
神先:
全国各地をめぐる『水戸黄門』の場合、地方の民謡が入ってくるから、それも大変でしょう?
中本:
確かに『水戸黄門』はそれが一番、悩むところですね。
ただ悩むと言っても、ある程度有名な民謡を探すのはそれほど苦労はないんです。
難しいのは、今我々がなじんでいるメロディにするか、あるいは昔のままのメロディでいくか。
本来、民謡というのはその土地土地で唄い継がれてきたものでしょう。でも、我々がなじんでいるのは大正から昭和にかけて歌い手さんがレコードに吹き込んだり、ラジオで唄ったもの。こぶしをつけるなど、聞かせるための編曲がされているんです。
地方の古老の唄を録音した古い音源や資料などと比べると、その違いがわかりますよ。
神先:
『水戸黄門』では、どちらのバージョンが多いの?
中本:
ケースバイケース。
古老の唄は音程がはずれていたりして、あまり上手ではないんだけど、その唄い方が逆に味になってよかったりもするんです。
その辺は監督の判断だから、僕は監督が選択できるように複数のパターンを用意して渡しています。
神先:
そういう曲は全部、このコンピュータで管理してるんでしょう?全部で何曲ぐらい入ってるの?

中本:
よく使う曲は限られてますけど、全部合わせれば4600曲くらい。
親父は機械が苦手だったから全部頭で管理してましたけど、僕には無理。コツコツと機械を買い揃えて、機能的に仕事ができるようにしています。
でも、いまだに知らない曲がけっこうあって、台本を開く時はドキドキです。
神先:
お父さんの仕事を見て、自分も同じ道に進もうと思ったわけ?
中本:
子どもの頃、何度か撮影所に連れてきてもらったけど、当時は「汚いとこやなぁ」「スタッフが恐いなぁ」という印象で、跡を継ごうなんてまったく考えてなかったんです。
実際、学校を卒業してから全然違う仕事に就いて。
神先:
それがまたなぜ?
中本:
妹の結婚式の時、親父は病気をおして車椅子で出席していたんですね。
で、東映の関係の方が「中本家には代々お世話になって…」と感動的なスピーチをしてくださって。それを聞いていたら、僕が今親孝行しないといかんと思って、「親父、僕やるわ」って言ったんですよ。
神先:
でも親父さんは入院中やったし、一人で大変だったでしょ?
中本:
この仕事を始めてすぐに4キロ痩せました(笑)。
誰が何のスタッフかもわからなくて、監督のつもりで一生懸命に話していた相手がカメラマンだったりして。
ただ、子どもの頃から親父がいろんな奏者を呼んで演奏していたのが耳に残っていたから、どんな曲があるかとか、いつの間にかある程度覚えていたんですよね。
では仕事の手順は自分で工夫して?
中本:
もう無我夢中でした。
わからないことがあると病院まで聞きに行ってたんだけど、ある時、親父は相当体調が悪かったらしくて、何も答えてくれなかったんですよ。
僕も切羽詰まっていたもんだから「もう、ええわ!」って、台本をテーブルにたたきつけてちゃって。
次の日、おふくろに「台本を粗末に扱うなんて映画人としてもってのほかだ」って怒ったらしい。これは今も思い出すたびに心が痛みます。
以来、台本は丁寧に扱ってますよ。
神先:
ほかにもいろいろ苦労があったでしょう?
中本:
仕事を始めてすぐの頃、ある時代劇で台本に「子守唄」としか書かれてなかったから、監督に「どうしましょう?」って相談したんです。そしたら「適当に作ってくれ」って。
当時はまだマシンもなかったから、自分で歌詞とメロディを作ってテープに吹き込むしかなかったんですよね。
でも、僕は人前で唄ったことなんてないし恥ずかしいから、みんなが帰るのを待って、深夜にひとり部屋の片隅でやりましたよ。お酒もひっかけて。
<♪なんとか山の小うさぎは、耳が長うて〜♪>みたいなヤツ。
で、翌日監督に聞いてもらったら、「いいね、これでいこう」となった。
神先:
よかったね。
中本:
いや、ここからが大変だったんです。
その子守唄を唄う女優さんが、撮影までに覚えてきてくれなかったんですよ。
で、結局僕が吹き込んだテープを流して、とりあえず女優さんは口パクで演技をしようということになって。
よりによって河原のロケですよ、深夜こっそり吹き込んだ唄を拡声器で大音量で流された時は、ホントに恥ずかしかったなぁ。
逆にうれしかった思い出は?
中本:
一番うれしかったのは、親父が亡くなる少し前、僕がやった仕事を初めて喜んでくれたこと。
『大奥十八景』という映画で、野村真美ちゃんが子守唄を唄うシーンがあったんです。
鈴木則文監督が詞を書いて、メロディは僕と某ミュージシャンとの競作だったんだけど、監督が僕のを選んでくれてね。で、朝日新聞だったと思うんだけど「野村真美の演技と哀愁を帯びた子守唄がよかった」って評価してくれたんです。
親父が、お見舞いに来てくれた人みんなにその記事をうれしそうに見せていたらしいんです。
神先:
それはいい親孝行ができたね。

中本:
はい。今、僕も子どもたちに仕事を教えながら、自分と同じように悩んだり、みんなに叱られたりしながら覚えていくんだろうなって、思ってます。
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