邂逅前夜

邂逅前夜

斎藤の場合
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 賑やかな屯所の廊下で、斎藤は欠伸をひとつ噛み殺した。局長の頼みで表沙汰にできない仕事に取り掛かったのが昨日の夜更けのこと。さっさと終わらせるつもりだった仕事が、予想に反して長引き、帰ってきてみれば、もう昼餉の前のこんな時間だ。

(本当なら、さっさと帰ってきて仮眠を取るつもりだったんだが…失敗したな)

屯所のあちこちから、鍛錬の声や賑やかな隊士たちの笑い声がする。もうすっかり馴染んでしまったその賑やかさに、斎藤は大きくため息をついた。

(毎日顔を合わせていたら、いい加減話題も尽きるだろうに)

広間で話をしている男たちの粗野な笑い声だけは、どうしても好きにはなれず…少しだけ速度を上げて、廊下を歩く。
けれど……斎藤の気持ちなど知る由もなく、広間にいた原田が彼の後姿に声をかけた。

「お、斎藤。おかえりーお前はどうする?」
「……どうするって、何がですか」
「明後日の行幸だよ。ほら、上賀茂神社であるやつ」

原田の言葉に、斎藤は、ああと小さく声を漏らす。そしてさして面白くもなさそうに呟いた。

「行く予定は、とくにありませんね。……というか、原田さん、行幸なんて難しい言葉よく知っていましたね」
「おお、藤堂が教えてくれた……って、テメエ! 俺を馬鹿扱いすんじゃねえよ!」
「声が大きい…」

斎藤が思わず顔をしかめると、広間にいた隊士たちもこめかみのあたりをさする。
舌打ちした原田は、畳の上に胡坐をかいたまま口を開いた。

「行幸ってのは、あれだろ。帝が街に来るっていう」
「そうですね。……それだけの催しですから、さして面白いものでもないと思いますよ」
「わかってないなー、斎藤。原田の目的は行幸じゃないから」
「どういうことですか?」 「人が集まるから、女の子に声かけやすいだろ」
「……ああ、そういう…」
「べ、別に出会いを求めたっていいだろうが! 斎藤はそういうの興味ねえのかよ」
「……ないですね」
「原田は邪なんだよなあ」
「うるっせえな」
「おっ、やるか?」

じゃれ合いにも近い喧嘩を始めた原田たちを呆れたまなざしで眺めた後、斎藤は何も言わずに広間を後にする。
さっきまでの眠気は、原田の大声で吹き飛んでしまっていて、これから夜までの長い時間をどう過ごすか、斎藤は少しだけ途方に暮れた。

※※※

特に急ぎの仕事もない斎藤は、賑やかな屯所を抜けて街へ出た。
二日後に行幸があるためなのか、街の中にいる人間は少しいつもよりも浮足立っているようにも見える。

(二百数十年ぶりの行幸ともなれば……野次馬もしたくなるというものか)

目的もなく、大通りを歩き……斎藤はふと、目線の先に見覚えのある男を見つける。
若葉のような色をした着物を着たその男は、たしかに……沖田だった。

「見回りの最中に物を食うな」
「あ、斎藤さん」

くるりと振り返った沖田は、団子を頬張りながら笑う。
緊張感のないその表情を見る限りでは、到底……この男が新撰組一の戦闘狂とは思えない。

「……お前、今日は山崎と二人で見回りじゃなかったか」
「それが、屯所に山崎がいなくて」
「は?」
「行幸の日が近いから、護衛の仕事で手いっぱいなんじゃないかって。……誰かついてくる?って聞いたのに、他の隊士はひとりで行けって言うし。もう、今日はお団子でも食べながら歩かないとやってられないんです」
「……いつも食べているだろう、お前は」

斎藤と見回りに行く際も、目を離せばすぐ沖田は店に吸い込まれてしまう。
手元には、いつもカステラや大福やきんつばと、甘いものがあるのが当たり前で、斎藤はそれに徐々に慣れつつある自分に気づいて顔をしかめた。

「さすがにお団子はないんですけど、金平糖食べます?」
「いらん」
「ええ、もらってくれたら交換条件で見回り付き合ってもらおうと思ったのに」

沖田はそう言うと、取り出したばかりの金平糖の袋を袖にしまう。
少しだけ重そうなその袖には、おそらく金平糖のほかにもたくさんの菓子が詰まっているのだろうとうかがえた。

「……見回りは、ひとりのほうが気楽だろう。隣で、団子を食うなと説教をされることもない」
「うーん、それはそうなんですけど。やっぱり、信頼してる人に背中を預けられるっていうのはいいじゃないですか。……近藤さんと土方さんみたいに」

斎藤の目をまっすぐに見つめながら言う沖田に、少しだけたじろぐ。
この男は掴み切れないような性格をしていて、けれど……どこかで憎み切れない、そういう魅力があった。

(これを狙ってやっているのなら……相当な策士だな)

「なんで黙るんですか、斎藤さん」
「俺は、いまだかつてお前を信頼していると一度も言った覚えはないが」
「えっ、嘘。僕完全に斎藤さんに気に入られてると思ってました」
「自意識過剰じゃないのか」

斎藤は沖田の言葉をふっと鼻で笑い、そのまま少しだけ歩く速度を速める。わずかに遅れた沖田はそれに小走りで追いつくと、恨めし気に彼の顔を見つめた。

「ええー……僕ばっかり斎藤さんを信頼してると思ったら、なんか腹が立ってきた。……信頼してもらえるまで、しばらく斎藤さんと見回りをさせてくれって土方さんに申し出ようかなあ」
「……信頼してる」
「あっ、すごい薄っぺらい感じで言った」
「鬱陶しい、袖を掴むな」

ぐいぐいとそばに迫る沖田から距離をとりながら、斎藤は早足に大通りを歩いていく。

(本当は、非番だが……まあ、付き合ってやらないこともないか)

「あまり遅いと置いていくぞ」

少し後ろにいる沖田の方を振り返り、斎藤が笑う。
予期せず相棒に恵まれた沖田は、斎藤の隣に並ぶと、いつもより少しだけ賑やかな街の中をゆっくりと歩き出した。

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