邂逅前夜

邂逅前夜

以蔵の場合
BACK
NEXT

「うーん……こっちとこうなると、ここがこうなって…。そうか、これじゃ!」

伏見にある旅籠屋、寺田屋。
岡田は文机に向かって喜怒哀楽を表している男、坂本の背中を眺めていた。

「次は何を思いついたんだ、龍馬」
「皆がわーっと驚くようなことじゃ」

坂本は振り返ってにっこりと微笑むが、岡田の表情は人形のように動かない。

「…そうか」
「なんじゃ、もっと興味を持って聞いとうせ」
「断る」
「相変わらず以蔵は冷たいのー。せっかく話してやろうと思っちゅうに」

坂本はぶつぶつ言いながら再び机に向かい、筆を走らせ始める。
そして、岡田の返答など忘れてしまったかのように、今考えていることを話し出した。

「実はな……ある仲の悪い藩同士をくっつけて、大きな商売をしたいと思っちゅう」
「仲が悪いのに、くっつくのか?」
「難しいだろうが、そこは腕の見せ所じゃ。きっと為せば成るぜよ」

坂本はご機嫌に鼻歌を歌いながら文を書き進める。こういうところを見る度に、岡田は同郷で大して年上でもないはずの坂本と自分の間に、大きな差があることに気付かされた。

岡田は護衛として指示に従い働く。時々他の依頼も受けるが、依頼主が変わるだけで、やることは特に変わらない。
一方の坂本は、自分で新しいことを思いついては仲間を見つけて行動に移す。坂本が誰かの指示に従うことはほとんどなく、大抵仲間の先頭に立つ。いつも何かに突き動かされるように躍動する坂本は、岡田にとって尊敬というより羨望の対象だった。

「……少し出てくる」
「お、逢引かあ? どんなおなごじゃ?」
「ただの散歩だ。くだらないことを言っていると、斬るぞ?」

嘘くさい悲鳴を上げる坂本を無視して、岡田は部屋の襖に手をのばす。
すると坂本が少し真面目な声色で言った。

「…今日は依頼、受けてなかったはずじゃろ?」
「ああ。明日の行幸のために、幕府が街の警備を強化してるからな。本当に少し散歩してくるだけだ」
「そうか、気をつけてな」

※※※

岡田が歩く道に人の姿はなかった。
しかしこの通りに旅籠屋や茶屋が多いせいか、あちこちから宴の賑やかな声が聴こえてくる。
その音から逃れるように歩き続け、岡田は人の声が聞こえなくなった蔵の脇に腰を下ろす。
一息ついて顔を上げると、青みがかった無数の星が岡田を見下ろしていた。

「俺の為すべきことって……何だろうな」

剣術の才を見出されてから、岡田は剣一筋で生きてきた。
坂本の護衛になってからはあまり引き受けていないが、かつての功績を辿って依頼が来ることも多い。誰かに必要とされることに悪い気はしないが、代わり映えのない依頼を受け続ける自分に、全く不安がないと言えば嘘になる。

「俺が出来ること……」

それを誰かに聞かれても、剣術以外に思い付くものが全くない。
こんなとき何一つ出てこないのは、長らく自分で考えることをしていなかった罰なのかもしれない。

「……考えるの、やめるか。どうせ、思いつかない」

岡田はぎゅっと自分の膝を抱え込む。
不安を星の美しさで払い除けようとでもするように、岡田はしばらく夜空を見上げていた。

このページのトップへ