Ⅵ
1517年——ということは、日本初のクラーナハ展となるこの展覧会よりちょうど500年前のこと、ドイツはヴィッテンベルクに暮らすひとりの神学者が、ローマ教皇の腐敗を批判するラテン語の文書を発表した。マルティン・ルターによる『95ヶ条の論題』である。マインツ大司教アルブレヒト・フォン・ブランデンブルクの政治的な思惑とも絡み、当時のドイツで盛んに販売されていた贖宥状に疑問を抱いたルターは、それを購入することによって煉獄の霊魂の罪が贖われるなどという教皇側のふれ込みは欺瞞であるとして、神学論争を仕掛けたのだった。その後に『95ヶ条の論題』はドイツ語に訳されて世間に広まり、それが契機となって本格的な「宗教改革」がはじまる。イタリア・ルネサンスの人文主義、ヨハネス・グーテンベルク以後の活版印刷術とも連動しながら、ルターに端を発する宗教改革は、ヨーロッパを「近代」のとば口へと向かわせることになったのである。
同じくヴィッテンベルクで活動したクラーナハは、ルターときわめて近しい間柄にあった。単にプライヴェートな親交を重ねたばかりでない。この画家はルターの思考を独自に視覚化した絵画や版画を生みだすことで、彼と高度な共闘関係を結んだのである。とはいえ、クラーナハは自身の作品をつうじて、ルターの神学を単にわかりやすく図解したのではない。彼はむしろ、描くことで新たな思想を語り、描くことによって社会変革の一端を担ったのである。クラーナハはルターの肖像画を何度も手がけることで、その「顔」を社会に知らしめ、さらにはそれまでのキリスト教図像学には存在しなかったイメージをみずから創出することで、いわば芸術の宗教改革をおこなったのである。
《 マルティン・ルター 》
1525年、油彩/板、40 × 26.6cm、ブリストル市立美術館
ルカス・クラーナハ ( 父、ないし子? )
《 子どもたちを祝福するキリスト 》
1540年頃、油彩/板(オーク材)、81 × 121cm、奇美博物館、台湾