Ⅰ
クラーナハの若き日々は、ほとんどが闇に包まれている。この画家がようやく歴史の表舞台に登場するのは、30歳に近づいた1500年頃に、ウィーンで残した足跡をつうじてである。ハプスブルク家が築いた広大な神聖ローマ帝国の政治的・文化的な中心地だったその都市において、クラーナハは先端的な人文主義者たちと親しく交わり、その豊かな知的環境のなかで画家として頭角を現わす。そんな彼の芸術は、ほどなくして、学芸を庇護する権力者の眼を惹くことにもなる。1505年、ザクセン選帝侯フリードリヒ賢明公に見初められたクラーナハは、宮廷画家としてヴィッテンベルクに招かれたのである。
のちにマルティン・ルターによる宗教改革の震源地ともなるそのヴィッテンベルクこそが、以後長らく、クラーナハのホームグラウンドとなった場にほかならない。そこでザクセン公家に仕えたクラーナハは、1508年のネーデルラント旅行の成果やイタリア・ルネサンス美術から受けた影響をきわめて独自に消化しながら、宮廷人たちの趣味や信仰心に見合った作品、あるいは政治的プロパガンダに貢献するイメージを数多く生みだしていくことになる。またそればかりか、彼はみずから大型の工房を開設/運営し、息子のルカス・クラーナハ(子)や弟子たちとの協働作業(コラボレーション)をつうじて、絵画の大量生産をはかった。蛇をモティーフにした署名を「商標」代わりとし、いわば自身の芸術のブランディングに成功したクラーナハは、自立的な事業家として、まったく先駆的な営為を展開したのである。
《 聖カタリナの殉教 》
1508/09年頃、油彩/板(菩提樹材)、112 x 95 cm、ラーダイ改革派教会図書館、ブダペスト
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《 コーブルク城の前で馬に乗るザクセン王子 》
1506年、木版、18.1×12.5cm、国立西洋美術館