エレベーターに乗って、最上階6階のホールに登った。当時社会党の取材で一番盛り上がるのは党大会だった。九段会館やここだったり、その党大会は開かれた。国会議員や書記局の職員だけでなく、全国から「活動家」が集結して延々と「活動報告」や「議論」を激しく続け、その果に、「人事」の選挙をした。普段は寡黙な知り合いの書記局員までが数日前から「うちは二本社会党だから」などと目の色を変えて、右派と左派入り乱れての激しい多数派工作に走り回っていた。思い出すのは田辺誠委員長時代に国会対策委員長をしていた右派議員で、親しかったこともあったと思うが、前の日の夕方にどうしているかと事務所を訪ねると、高そうなワインを差し出した。困惑した私が「応援しろということですか」と言うと、「そうだ」と言い切った。「この人はこうやって政治をしてるんだな」と幻滅したが、結局翌日の国対委員長選挙で勝ったのは、対抗馬の村山富市予算委員会筆頭理事だった。しばらくして、会場の壁にもたれて議事の進行を眺めていると、どこから来たのか村山氏が握手をしてきて「よろしく」と言った。ちゅうちょなく私は「もちろん」と返した。みんな、興奮していたのだ。91年のことだ。
夏には天下分け目の決戦がやってくるのだ。民主党も小沢氏が代表から退いたといっても、「小沢院政」の影がつきまとう。決戦が近づくにつれ自民も民主も番組の中でご意見番の党への注文はボルテージが高くなってきた。いずれも「あるべきすがたに変わる」ことを求めていた。
●2009年5月17日
●2009年6月7日
がらがらと音をたてて開く自動ドアを抜けて外に出た。振り返ると道路に面して、2、3、4それぞれの階にあるベランダが目に付いた。以前、御厨氏が「社会党本部のテラスって、政権を取ったときに、あそこに党首らが出て周囲に集まった歓喜の大群衆に手を振るようにって作られたんだって」と教えてくれたのを思い出した。何回も通った建物だったが、不覚にもそのことは知らなかった。
変われなかったこの党に「その日」はなかった。そして、かつての喧騒も遠い日の思い出となっていた。「永久革命なんて言葉もあったよな」などと青臭いことを思ったりした。この建物に集まり。散じた「活動家」の思いが染み付いているからなのだろうか。懐かしさが募る一方で、「もうここには来ないだろうな」と思った。国会までつながるその「歓喜の大群衆」がいるはずの国会図書館との間の路地は、昼下がりのゆっくりとした時間が流れ、並んで停車したタクシーの中では、運転手さんがお弁当を食べたり、昼寝をしたりしていた。
※本原稿は新・調査情報7〜8月号に掲載されています。
◆石塚 博久 (いしづか ひろひさ)
'62 東京都足立区生まれ。早稲田大学卒業後、'86日本経済新聞社に入社。大阪、名古屋、仙台支局(このとき、「みちのく温泉なんとか殺人事件」に出るような温泉はほとんど行った“温泉研究家”でもある)に。
東京本社政治部で政治取材の厳しい(「虎の穴」のような)指導を受け、新聞協会賞(「閣僚企画」共著)も。
'96TBS入社後は、報道局政治部記者、「NEWS23」のディレクターを経て、「時事放談」制作プロデューサー。

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