特集
富岡製糸場と絹産業遺産群
─なぜその時期に、日本の蚕糸が注目されたのでしょうか?
江夏:1860年頃、ヨーロッパで蚕の病気が蔓延し、多くの蚕が死滅してしまいました。生糸や蚕種(蚕の卵)が品不足になり輸入する必要があったのですが、アヘン戦争の影響で、当時の最大の生糸輸出国だった清(中国)の国内情勢が悪く、生糸の生産力も落ちていました。そんな中、日本では品質のいい生糸と蚕種が手に入るという評判がヨーロッパの商人の間に広がったということです。
―その結果、日本の蚕糸や蚕種に対して、海外からの需要が高まったというわけですか。

江夏:そうです。しかし海外からの需要が一気に高まった結果、品質の低い生糸や蚕種も出回るようになってしまいました。粗悪品が流通すると日本製品の評判が落ち、国益を損ねると判断した政府は、規範となるべき大規模な製糸場を造ることにしたのです。富岡製糸場で働く人々は、技術と知識の習得を目的としていました。
―富岡製糸場の目的は、単なる蚕糸の大量生産ではなく、人を育てることにもあったというわけですね。世界最大規模の製糸場となれば、それ以前の日本の生糸の生産方法とは大きく異なりますね。
江夏:富岡製糸場が造られたことで、さまざまな近代化が一気に進行することになりました。例えば、操糸場は大量の製糸機を並べるため、中央に柱を持たないトラス構造を採用しました。壁は木の骨組みにレンガを積み上げていますが、富岡周辺にレンガの製造技術はまだなかったので、瓦職人が集められて技術指導を受け、レンガを焼いたそうです。また操糸場に造られた下水道は、国内第1号か2号のものだと言われています。
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