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観れば“お腹が減る!?”食にまつわる世界遺産

文明と食は二人三脚で発展したと実感した THE世界遺産ディレクター取材記

―小麦について伺ってきましたが、次は2週目のテーマであるコショウについて聞かせてください。コショウは主食である小麦と違い、言ってしまえばなくても困らないものですよね。それなのに、歴史の中で重要な役割を担ったのはなぜなのでしょうか?

文明と食は二人三脚で発展したと実感した THE世界遺産ディレクター取材記

飯塚:コショウはインド南部原産の熱帯植物なので、小麦のように広い地域で育てられるものではありません。生産地から運んでくるしかない貴重な嗜好品であり、それを食べられることはステータスが高い証でした。西洋のコショウの歴史は、『古代ローマ』の上流階級の人々から始まります。彼らはコショウを大量に使った料理が大好きでした。その一つである「ウナギの蒲焼き」を、記録に残っているレシピを基に番組のなかで再現したのですが、タレを一口舐めただけで、目の前に星が飛ぶほど刺激的な味でした。とにかく辛くて酸っぱい! ローマの料理研究家の方が言うには、パーティーに必須の食べ物だったそうです。「あの家では高価なコショウを目の回るほど使ったすごい料理が出る」と注目を集めていたのでしょう。

―今では誰もが気軽に口にできるコショウが、そんなに価値のあるものだったとは驚きです。

文明と食は二人三脚で発展したと実感した THE世界遺産ディレクター取材記

飯塚:この古代ローマのコショウに対する情熱は、ヨーロッパの王侯貴族にも伝わります。でも、大きな問題が起こります。東西交易の拠点だった世界遺産『イスタンブール』が1453年にオスマン帝国の手に落ちると、このイスラームの大帝国によって従来の交易路が遮断されてしまったのです。探検家バスコ・ダ・ガマがインドへ渡り、コショウを持ち帰ることになったのはこのためです。こうなると自分たちで取りに行くしかないと。大航海時代の始まりです。今回取り上げているコショウにまつわる世界遺産の1つ、『リスボンのジェロニモス修道院』はコショウ貿易の利益で建てられた豪奢な修道院で、いわば“コショウ御殿”です。その内装にはコショウのレリーフが飾ってあり「コショウありがとう!」という気持ちが伝わってくる建築物です。

―そのほかにコショウにまつわる世界遺産はどのようなものがあるのでしょうか?

飯塚:ポルトガルによるインド植民地化の基地となった世界遺産の街『ゴア』は、ガマが亡くなった地としても知られています。この街には、キリスト教の聖堂が数多く残っています。ガマが切り開いた航路は、コショウだけでなく宣教師たちの道になったからです。宣教師たちはここからアジアへ布教に向かいました。16世紀に日本に来た宣教師のザビエルも、この街の聖堂に葬られました。こうして、コショウが生み出した道によって世界がだんだん狭くなっていったのです。イギリスにある、世界中の植物を集めた世界遺産『キュー植物園』もこうした航路のおかげで生まれました。