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BACK NUMBER #576 2017.6.24 O.A.

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日米通算2000本安打達成!青木宣親に隠された原点
2017年6月11日、1人の日本人メジャーリーガーが偉業を成し遂げた。青木宣親(35)。史上7人目の日米通算2000本安打。しかし、その道のりは決して約束された野球エリートのものではなかった。
2000本安打達成から1週間、青木の原点を探ろうと宮崎県日向市の実家を訪ねた。出迎えてくれたのは71歳の父・人志さん。玄関には息子の懐かしい軌跡がずらりと飾られていた。日本での首位打者、ベストナイン、さらにはWBCで世界のベストナインに選ばれた時のトロフィーなど100点以上。父は6年前、新しくこの家を建てた際、野球人生で息子が勝ち取った勲章を展示するためのスペースを作ったという。この1つ1つが苦難を乗り越えてきた青木の人生の証だ。実は息子がここまでの選手になるなど、両親は全く思ってもみなかった。
青木は高校時代、全く無名の存在だった。地元の県立日向高校でチームのエースとして甲子園を目指すどこにでもいる高校球児。当時、監督として指導した田平先生が、高校時代の青木が書いたという練習ノートを見せてくれた。3年生の春の県大会で優勝したものの、夏の甲子園予選では強豪校にかなわず準決勝で敗退した。この頃青木は密かな目標を抱いていた。それは高校1年生の時、テレビ中継で見た早慶戦。伝統であるその舞台に立ちたいと早稲田大学進学を希望していた。しかしスポーツ推薦には実績が足りず、実現するには勉強で入るしかなかった。青木は野球とともに猛勉強に励んだ。進学校でもある日向高校で1学期の成績は平均80点を超え、クラスでは2番。さらに内申点の平均は5段階で実に4.6。これを評価された青木は、指定校推薦の枠を勝ち取り、野球ではなく勉強で念願の早稲田進学を決めた。しかし本当の戦いはここからだった。野球部の門を叩いた青木の前には、想像以上の厳しい現実が待ち構えていた。100人を超す部員、しかも同級生には高校時代から抜群の野球センスを誇った埼玉・聖望学園の鳥谷敬。沖縄尚学の4番バッターとしてセンバツで優勝した比嘉寿光などスポーツ推薦の有望選手が目白押し。中でも青木は、同じ左バッターの鳥谷を強烈に意識していた。しかし無名の公立校出身の青木は、当初チームの構想外だった。それでも50m、5秒台の俊足を買われ、外野手に転向。ベンチ入りはしたものの、代打や守備での出場が多かった。一方鳥谷は、1年生からスタメンで出場。2年生の春には三冠王を獲得するなど早くも大学野球のスター選手になっていた。そんな鳥谷の活躍を常にベンチで見ていた青木は、当時その胸の内を母に打ち明けていた。「鳥谷だけには負けたくない」そんな思いで青木は、全体練習が終わった後も深夜までバットを振り続けた。そんな努力が身を結んだのは3年生の時だった。春のリーグ戦から2番センターでレギュラーを勝ち取ると秋には打率0.436で東京大学リーグの首位打者に輝き、ベストナインの常連に。4年生になると、1番から6番までが全員プロ野球選手になるという早稲田史上最強打線を牽引し、リーグ4連覇に大きく貢献した。青木は自信を胸にプロ入りを決断。2003年のドラフト会議に臨んだ。しかしプロの目は厳しかった。上位には名前も出ず、呼ばれたのはドラフト4巡目。一方ライバル鳥谷は、当時の自由獲得枠で複数球団からオファーを受けた中から阪神を選択。鳥谷との評価の差は明らかだった。この悔しさを胸に青木はヤクルトに入団。1年目はほとんど1軍に呼ばれることはなかった。しかし2軍では力を見せつけ、イースタンリーグの首位打者を獲得。2年目には1軍開幕スタメンを勝ち取ると、次々とヒットを量産した。するとその年、イチロー以来となるシーズン200安打を達成し、首位打者、最多安打、新人王を獲得。一躍スター選手になった。一方ライバルの鳥谷は、1年目からレギュラーに定着。2年目にはバッティングと好守備でチームのリーグ優勝に大きく貢献するなど活躍を見せていた。大学の恩師・野村は、青木はプロ入りしても鳥谷を意識していたという。鳥谷は歴代2位となる連続試合出場を記録するなど、今も阪神の主力として活躍し続けている。しかし青木は、ヤクルト在籍8年の間に首位打者を3度、200安打を2度達成するなど鳥谷を上回る打者としての勲章を積み上げた。WBCにも鳥谷に先んじて出場。2009年には日本人野手でただ1人、ベストナインに選ばれ世界一に貢献。年俸も3億円に到達し、日本を代表するプロ野球選手となった。2011年のオフ、29歳の青木はメジャーリーグ挑戦を決断。これを受けミルウォーキ・ブリュワーズが青木を落札。しかしその内容は、日本で実績を積み上げてきた青木にとって屈辱的なものだった。求められたのは入団テスト。しかも結果によっては契約されない可能性もあった。落札後のテストなど前代未聞の事態。2012年1月、それでも青木はアメリカに渡り、契約をかけた入団テストに臨んだ。守備、走塁、バッティングと青木にとって屈辱的なメニューだったが、それでも青木は求められたことを全力でこなした。その結果、契約は合意した。しかし評価は外野手の5番手、年俸7500万円はヤクルト時代の1/4以下だった。それでも青木は前を向いていた。迎えたメジャー開幕戦は代打でのスタート。その後も与えられたチャンスを確実にものにし、青木らしいプレーで信頼を徐々に勝ち取っていった。スタメン出場した2012年6月12日の試合では試合を決めるサヨナラホームラン。こうして低い評価を実力で覆し、レギュラーを掴み取った。その後、俊足好打の1番打者として7年間で5つの球団を渡り、移動するごとに評価もあげていった。2017年の年俸は6億円、1年目の約8倍だ。そして迎えた2017年6月11日。ついにその時が。日米通算2000安打。低い評価を覆し続けてきた男がその名を歴史に刻んだ。
名もなき1人の雑草が大輪の花を咲かせた。青木宣親(35)。その反骨の魂に心からエールを送りたい。
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