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BACK NUMBER #544 2016.10.29 O.A.

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かつてドラフト1位で入団した男たちの第2の人生
かつて、栄光の巨人軍で最高の評価を受け強烈な光を放った河原純一。43歳になった今、彼はその栄光とは違った第2の人生を歩んでいる。そしてもう1人、ドラフト1位の重圧に苦しみ、志半ばでユニフォームを脱いだ男は、わずか半年で華麗なる転身を遂げていた。ドラフト1位というプライドを抱えながら、第2の人生を必死に生きる男たちの今を追った。
1994年ドラフト会議。この年、1位はもちろん2位以下にも後に球界を代表する選手たちが顔を揃えた豊作の年だった。その中で巨人のドラフト1位となったのが駒沢大学の河原純一(当時21歳)。河原は1年目こそ先発として起用されたが、2年目以降はケガが多く、思うような結果を残すことができなかった。そんな河原に転機が訪れたのがプロ8年目の2002年。巨人の新監督となった原辰徳が、河原を守護神として大抜擢。その起用が的中した。なんと、シーズン当初から16試合連続無失点を記録。140キロ後半の伸びのあるストレート。そして落差の大きいフォークボールを武器に不動の守護神に定着。河原は、どんなピンチの場面でも顔色ひとつ変えず、淡々と打者を抑えていった。そしてこの年、巨人が日本一になると、河原は胴上げ投手となった。スター選手へと上り詰めたはずだった。しかしその直後、河原の野球人生は苦難に陥ってゆく。翌年から極度の不振に陥り、2005年の開幕直前に西武へトレード。さらにその年のシーズン終盤には右ひざ靭帯を断裂し手術。そのまま輝きを取り戻せず、プロ13年目の2007年、34歳で戦力外通告を受けた。河原はそのままユニフォームを脱ぐことなどできず、プロ復帰を目指し浪人すると決断した。当てがあったわけではない。それでもトレーニングをし続けるしかなかった。すると1年後の2008年、河原に転機が訪れる。落合監督率いる中日から入団テストの声がかかったのだ。河原はそのテストに見事合格、プロ野球界復帰を果たした。復帰1年目、中継ぎとして44試合に登板。防御率1.85の成績を残し、復活と呼ぶに相応しい活躍を見せた。その後3年間、中日でプロ野球選手としてマウンドに立ち続けた。2012年、独立リーグ・愛媛マンダリンパイレーツでも現役を続行。42歳になった昨年、とことんまで野球をやりきった河原は、現役生活21年で野球人生の幕を下ろし引退した。それから1年、彼は愛媛県で事業を展開する広告会社で働いている。従業員およそ60名。主に、テレビやインターネットの広告制作をはじめ、ポスターやカタログなどの企画制作を行っている会社だ。河原はこの会社に、引退から3か月後の今年1月、正社員として就職した。野球一筋の人生だった河原、40歳を過ぎて初めての会社勤めだ。デスクワークはなかなか慣れないという。河原がこの会社に就職したのには、ある理由がある。実は、河原が勤める会社は広告だけでなく、スポーツ事業も行っており、河原が所属していた独立リーグのチームを運営している。それが縁で、就職することになったのだ。現在河原は、その抜群の知名度を活かして、野球関連のイベント運営に携わっている。仕事を始めて9か月、名刺交換も板についてきた。仕事先でも河原の知名度は抜群だ。河原は野球に携われることに惹かれ、この仕事を選んだ。マウンドに立つことにこだわり続けてきた男は、ユニフォームを脱いでもなお、野球に関われるこの仕事に生きがいを感じ情熱を注いでいる。
有名企業がひしめき合う、東京・新宿。ここで、一部上場の大手企業の社長を相手に、堂々と渡り合うこの男もまた、かつてドラフト1位指名を受けたプロ野球選手だった。元横浜ベイスターズ投手・小林太志(33)。小林が現役を退き、この仕事を始めたのは2年前。そう、わずか2年という短期間で、エリートビジネスマンに駆け上がったのだ。
小林は、幼い頃からプロ野球選手になることが夢だったが、野球だけでなく勉強も得意だった。高校は、地元・群馬県で有数の進学校に進み、大学は一般入試で立教大学へ進学した。それでも、プロ野球選手の夢を持ち続けていた小林は野球を続け、大学卒業後は、社会人野球の名門・JR東日本に就職。キレのあるストレートを武器に、都市対抗野球でチームをベスト4に導くなど、プロ野球のスカウトから注目を集めるようになっていった。すると2007年、小林は24歳で横浜ベイスターズからドラフト1位指名を受けた。しかしこのとき、小林はいわゆるハズレ1位。しかも、この年のドラフトは、大学社会人と高校生が別々に分けて行われたため、ドラフト1位選手が24人も誕生した年だった。小林にとってドラフト1位という肩書きは、予想外に降ってきたものだったという。そして、そのドラフト1位という肩書きに小林は苦しむこととなる。1年目、小林は先発ローテーションに入り、6勝を挙げるなどルーキーとしては、まずまずの成績を残した。翌年小林は、もっと結果を出そうとさらに強い気持ちで臨んだ。しかし、その焦りから小林はフォームを乱し、散々な成績に終わった。その後も小林の低迷は続き、入団7年目の2014年、31歳で戦力外通告。小林はユニフォームを脱いだ。そして第2の人生は、野球とはまったく別の世界で成功すると決意した。そして小林は、一般企業の就職活動を開始。大手でかつ成長している企業に絞って試験を受け、見事3社から内定を勝ち取った。小林の新たな仕事先は、東京、新宿のオフィス街にある東証一部上場企業、不動産会社「タカラレーベン」。小林はここで去年の4月から正社員として務めている。入社してまだ1年半だがパソコン作業も難なくこなす。仕事は、会社の経営管理。小林は、行動力が認められ、入社からわずか1年で課長代理の肩書きを与えられ、野球とはまったく別の世界で成功を目指すという、大きな一歩を踏み出している。
ドラフト1位。それはときに栄光に、そして十字架にもなりえる。しかし、その強烈な輝きがあったからこそ、その誇りを胸にその続きにある人生を踏み出すことができる。男たちの歩みはまだ始まったばかりだ。
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