土曜 午後5時~
MENU
BACK NUMBER #525 2016.6.11 O.A.
バックナンバー
サッカー元日本代表 新たなる挑戦
<高原直泰>
沖縄県うるま市。那覇空港から1時間、本島の中部に位置する人口12万人のこの町に、今年(2016年)移住してきた1人の男、高原直泰(37)。かつて、Jリーグや日本代表でゴールを量産した点取り屋。沖縄に暮らし始めて半年、この日、高原がやってきた場所は畑。農家の手ほどきを受けながら畑を耕す。これが彼の今の職業なのか?農作業を終えると、うるま市内の自宅へ。現在高原は、賃貸アパートで愛犬とともに暮らしている。実は高原、5年前に6年間連れ添った妻と離婚。生活のすれ違いが主な原因だったという。かつて暮らしていた自宅マンションと車は、沖縄へ来る前に売却したという。高原は、一体この地で何を行っているのか?そこには、男の壮大なロマンが詰まっていた。
サッカー王国・静岡で生まれ育ち、全国屈指のエースストライカーとしてエリート街道を歩んでいた高原は、高校卒業後、ジュビロ磐田に入団。スターへの階段を一気に駆け上がり、史上最年少で得点王に輝くなど、底知れぬ才能に大きな期待が寄せられていた。常に高みを目指し、アルゼンチンやドイツなど海外のチームでもプレー。6年間、世界のトップレベルに挑み続けた。その間、日本代表でも中心選手としてゴールを量産した。しかし、Jリーグへ復帰後、故障や、若手選手の台頭などにより、出場機会が徐々に減少。出番を求め、移籍を繰り返した。そして昨年(2015年)、高原は2年間在籍したJ3のSC相模原を退団。今年、37歳を迎えた高原は、沖縄で第2の人生をスタートさせていた。だが、農業は高原の新たな仕事ではない。直接、農家に頼み込み、無給で手伝いをさせてもらっているのだという。さらに自分の住んでいる地域の事を知ろうと町中を歩き回り、人と触れ合い、文化や産業について学ぶ。このようなことをこの地へ来て半年、時間が許す限り行っていた。一体、高原の職業は何なのか?彼の名刺には、「沖縄SV株式会社 代表取締役」となっている。実は高原、沖縄にサッカーチームを設立していたのだ。高原はここ数年、自分は引退後にどんな人生を送りたいのか?ということをよく考えていた。そんなとき、知人からサッカーチームを設立して欲しいという依頼が飛び込んできた。高原がこの話に魅力を感じたのは、ただサッカーチームを作るのではなく、行政も協力した形での地域密着のチーム運営を目指していた事が大きかった。高原は、ドイツのチームに所属していた時、そのチームの有り方が様々な部分で地域に根付いていることに感銘を受け、日本でもそういったことをいつか実現したいと思っていた。地域の産業が活性化するために必要な事をサポートし、いずれサッカーチームとともに新たな事業を展開する。農業を例に挙げれば、収穫した野菜を試合会場で販売するなど、様々なプランを考えているという。しかし、厳しい現実も多い。チームはJ1の7つ下の、県3部リーグからのスタート。いわば最下層から這い上がっていかなければならない。当然、良い選手を集める事も難しい。地元・沖縄の若手選手や、かつてのチームメイトに声をかけるなど何とか20名の選手を確保したが、ほとんどがアルバイトとサッカーの掛け持ち。専用の練習場やクラブハウスなどもなく、週5日、日替わりで空いているグランドを探して使用している。チームの運営費は、高原自らが1000万円を投じ、監督や選手も兼任するという。不安材料をあげればきりがない。しかし、高原は難しい挑戦であればあるほど、やりがいを感じるという。目標は、チームをJリーグへ導く事。チームを強くするため、戦いはまだ始まったばかり。
<伊東輝悦>
秋田県秋田市。この町に今年1月、移住してきた一人の男がいる。元日本代表・伊東輝悦(41)。20年前、アトランタ五輪でマイアミの奇跡を起こした、あの伊東だ。この日は、お昼に仕事を終え、8歳の息子を学校に迎えに行く。学校では、伊東の息子がサッカーをしていた。小さい頃から、サッカーへの思いは一切変わらない。
サッカーどころ静岡で、「清水のマラドーナ」と呼ばれるほどのサッカー少年だった伊東は、名門・東海第一から清水エスパルスに入団。プロ入り後も、ドリブルとパスの精度が高く、主にミッドフィルダーとして活躍。そして、プロ3年目の21歳の時、五輪代表選手としてあの伝説のゴールを奪った。その翌年(1997年)、22歳で日本代表に選ばれ、トルシエジャパンではゲームキャプテンを務めるなど、チームの中心選手になった。エスパルスでは、チームの顔として18年もの間、戦い続けた。そして2010年、伊東は若返りを図るチーム方針に伴いエスパルスを退団。チームの功労者だった伊東に、指導者への期待も大きく寄せられていた。しかし伊東は、現役にこだわった。J1でなく、J2やJ3であっても、プレー出来る場所があれば即決でそのチームへの入団を決めた。しかし昨年、2年間在籍したJ3長野からも戦力外通告を受けた。そして今年(2016年)伊東は秋田にいた。まだ現役。所属チームは、J3のブラウブリッツ秋田。平均年齢25歳のチームの中で、41歳の伊東が戦っていた。伊東は、この秋田の地に家族も連れてきている。伊東と高校の同級生だった同じ年の妻・えりこさんは、現役に拘る夫の思いを尊重しているという。6歳からサッカーを始め、今年で35年。伊東のサッカーへの情熱は、今だ冷めてはいない。
高原直泰と伊藤輝悦。かつて日本中を熱くたぎらせた2人の男は、それぞれの新たな夢を胸に、今日もピッチを走り続けている。
沖縄県うるま市。那覇空港から1時間、本島の中部に位置する人口12万人のこの町に、今年(2016年)移住してきた1人の男、高原直泰(37)。かつて、Jリーグや日本代表でゴールを量産した点取り屋。沖縄に暮らし始めて半年、この日、高原がやってきた場所は畑。農家の手ほどきを受けながら畑を耕す。これが彼の今の職業なのか?農作業を終えると、うるま市内の自宅へ。現在高原は、賃貸アパートで愛犬とともに暮らしている。実は高原、5年前に6年間連れ添った妻と離婚。生活のすれ違いが主な原因だったという。かつて暮らしていた自宅マンションと車は、沖縄へ来る前に売却したという。高原は、一体この地で何を行っているのか?そこには、男の壮大なロマンが詰まっていた。
サッカー王国・静岡で生まれ育ち、全国屈指のエースストライカーとしてエリート街道を歩んでいた高原は、高校卒業後、ジュビロ磐田に入団。スターへの階段を一気に駆け上がり、史上最年少で得点王に輝くなど、底知れぬ才能に大きな期待が寄せられていた。常に高みを目指し、アルゼンチンやドイツなど海外のチームでもプレー。6年間、世界のトップレベルに挑み続けた。その間、日本代表でも中心選手としてゴールを量産した。しかし、Jリーグへ復帰後、故障や、若手選手の台頭などにより、出場機会が徐々に減少。出番を求め、移籍を繰り返した。そして昨年(2015年)、高原は2年間在籍したJ3のSC相模原を退団。今年、37歳を迎えた高原は、沖縄で第2の人生をスタートさせていた。だが、農業は高原の新たな仕事ではない。直接、農家に頼み込み、無給で手伝いをさせてもらっているのだという。さらに自分の住んでいる地域の事を知ろうと町中を歩き回り、人と触れ合い、文化や産業について学ぶ。このようなことをこの地へ来て半年、時間が許す限り行っていた。一体、高原の職業は何なのか?彼の名刺には、「沖縄SV株式会社 代表取締役」となっている。実は高原、沖縄にサッカーチームを設立していたのだ。高原はここ数年、自分は引退後にどんな人生を送りたいのか?ということをよく考えていた。そんなとき、知人からサッカーチームを設立して欲しいという依頼が飛び込んできた。高原がこの話に魅力を感じたのは、ただサッカーチームを作るのではなく、行政も協力した形での地域密着のチーム運営を目指していた事が大きかった。高原は、ドイツのチームに所属していた時、そのチームの有り方が様々な部分で地域に根付いていることに感銘を受け、日本でもそういったことをいつか実現したいと思っていた。地域の産業が活性化するために必要な事をサポートし、いずれサッカーチームとともに新たな事業を展開する。農業を例に挙げれば、収穫した野菜を試合会場で販売するなど、様々なプランを考えているという。しかし、厳しい現実も多い。チームはJ1の7つ下の、県3部リーグからのスタート。いわば最下層から這い上がっていかなければならない。当然、良い選手を集める事も難しい。地元・沖縄の若手選手や、かつてのチームメイトに声をかけるなど何とか20名の選手を確保したが、ほとんどがアルバイトとサッカーの掛け持ち。専用の練習場やクラブハウスなどもなく、週5日、日替わりで空いているグランドを探して使用している。チームの運営費は、高原自らが1000万円を投じ、監督や選手も兼任するという。不安材料をあげればきりがない。しかし、高原は難しい挑戦であればあるほど、やりがいを感じるという。目標は、チームをJリーグへ導く事。チームを強くするため、戦いはまだ始まったばかり。
<伊東輝悦>
秋田県秋田市。この町に今年1月、移住してきた一人の男がいる。元日本代表・伊東輝悦(41)。20年前、アトランタ五輪でマイアミの奇跡を起こした、あの伊東だ。この日は、お昼に仕事を終え、8歳の息子を学校に迎えに行く。学校では、伊東の息子がサッカーをしていた。小さい頃から、サッカーへの思いは一切変わらない。
サッカーどころ静岡で、「清水のマラドーナ」と呼ばれるほどのサッカー少年だった伊東は、名門・東海第一から清水エスパルスに入団。プロ入り後も、ドリブルとパスの精度が高く、主にミッドフィルダーとして活躍。そして、プロ3年目の21歳の時、五輪代表選手としてあの伝説のゴールを奪った。その翌年(1997年)、22歳で日本代表に選ばれ、トルシエジャパンではゲームキャプテンを務めるなど、チームの中心選手になった。エスパルスでは、チームの顔として18年もの間、戦い続けた。そして2010年、伊東は若返りを図るチーム方針に伴いエスパルスを退団。チームの功労者だった伊東に、指導者への期待も大きく寄せられていた。しかし伊東は、現役にこだわった。J1でなく、J2やJ3であっても、プレー出来る場所があれば即決でそのチームへの入団を決めた。しかし昨年、2年間在籍したJ3長野からも戦力外通告を受けた。そして今年(2016年)伊東は秋田にいた。まだ現役。所属チームは、J3のブラウブリッツ秋田。平均年齢25歳のチームの中で、41歳の伊東が戦っていた。伊東は、この秋田の地に家族も連れてきている。伊東と高校の同級生だった同じ年の妻・えりこさんは、現役に拘る夫の思いを尊重しているという。6歳からサッカーを始め、今年で35年。伊東のサッカーへの情熱は、今だ冷めてはいない。
高原直泰と伊藤輝悦。かつて日本中を熱くたぎらせた2人の男は、それぞれの新たな夢を胸に、今日もピッチを走り続けている。