バックナンバー:バース・デイ

BACK NUMBER #433 2014.7.19 O.A.

バックナンバー
父・貢×息子・辰徳 受け継がれた野球魂
8年前の1996年、開幕戦の前日。巨人軍原監督が、親族を集め開いた、食事会の様子。特別に我々のカメラだけ、撮影が許可された。かつてアマチュア界屈指の名匠として、息子・辰徳をスーパースターに育て上げた父・貢。言わば、原野球の原点だ。この時、70歳。この時から8年…。今年(2014年)5月29日、原が敬愛してやまない父が、この世を去った。お別れ会には、親族をはじめ、プロ野球界の大物たちも姿を見せ、1000人以上もの出席者が故人の球界への貢献を偲んだ。その席で息子は、父との思い出を語った。
「父は、何より野球が大好きであり、人作りが大好きでした。私にとっても父であり、師であり、理解者であり、私のファンでもありました。そして、私も父のファンでした。」
込み上げる、父への思い。そこには、野球に全てを捧げた一組の親子のしられざる、壮絶人生が秘められていた。
原辰徳の父・貢が、その名を轟かせたのは、1965年30歳の時。福岡・三池工業高校の監督として、全く無名のチームを甲子園に導き、なんと決勝戦に進出。強豪・銚子商業をやぶり、初出場初優勝をなしとげた。下馬評を覆す全国制覇に、地元は大フィーバー。軌跡を実現した父を当時7歳だった辰徳は、間近で見ていた。野球というスポーツの力。その力を見せてくれた父への、誇らしい思いが辰徳を、野球にのめり込ませた。翌年、その手腕を買われた父は、まだ開校2年目だった、神奈川県の東海大相模高校の監督に就任。ここでも、奇跡を巻き起こす。就任5年目の1970年、東海大相模は、決勝戦でPL学園と対戦。圧倒的な打力で、10対6とねじ伏せ、初優勝。父は、2度目の全国制覇を実現した。その頃、中学の野球部のエースだった息子・辰徳も父の野球に魅了され、プロ野球選手を目指していた。辰徳は、その実現のため、父が監督を務める東海大相模に進学し、父の下で甲子園を目指そうと決意した。だが、それは、父にとって或る決断を強いられるものだった。それは、親子だからこそ、より厳しく接っし、甘えは一切許さないという、父からの強烈なメッセージだった。1974年、辰徳は、東海大相模に進学。強豪校に誕生した、親子鷹。それは、地獄の日々の始まりだった。息子を言わば、生贄にして、チームを引き締めようとしていた父。その厳しさは半端なものではなかったという。父が伝えたかったのは、野球と向き合う姿勢。技術の向上の前に取り組み方を但す。これが原野球の原点。勝利をつかむ戦略や作戦は、緻密に立て、常識にとらわれない、合理的な一面も持ち合わせていた。それは、今の巨人の野球を彷彿とさせるものだ。当時、東海大相模の野球部員は1000以上。グラウンドに収容しきれない、多くの控え選手が、あちこちで練習していたが、父はそのすべてに足を運び、直接指導。時に大抜擢もした。その結果、チームに前向きな空気が生まれ、選手1人1人の意識も高くなった。その後、父が相模から東海大学の監督に転任すると、息子も東海大学へ進学。辰徳はリーグ3冠王を獲得し、大学野球のスターへと成長した。そんな原辰徳も学生時代、1度だけ父に涙を見せた事がある。それは、高校を卒業した時、父からかけられた言葉だった。
「辰徳、お前、よう頑張ったな。しかしな、俺もきつかったぞ」
それは、息子には鬼にしか見えなかった父が、初めて明かした本音だった。辰徳は涙が止まらなかった。そして、1980年、辰徳は、ドラフト1位指名を受け、巨人に入団。バッターとして、数々の栄誉を手にし、1995年、現役を引退。2001年10月、巨人軍第14代監督に就任した。原野球の最大の特徴は、大胆な選手起用。2軍で好調だった選手を1軍に昇格させスタメンに起用するなど、選手の可能性を引き出し、チームを活性化させた。そこには選手全員に目を配る、父・貢の教えが受け継がれていた。その結果、この年、支配下選手全70名のうち、実に66名が一軍の試合に出場。チームは日本一に輝いた。一方、1996年に一戦を退いた父・貢は、その後も息子の戦いを見守り続けた。時には、キャンプにも顔を出し、辰徳が高校に入学してから40年間、親子鷹は、ずっと続いていたのだ。
野球というスポーツに魅せられた、一組の親子。息子・辰徳に受け継がれた、父・貢の原野球の魂は、これからも多くのファンを痺れさせていくだろう。
[BACKNUMBER]
banner_AD
Loading…

SNS

TBSトップページサイトマップ Copyright© 1995-2024, Tokyo Broadcasting System Television, Inc. All Rights Reserved.