特集

明治日本の産業革命遺産

2015年10月4日放送 100年現役!明治の巨人クレーン

2015年10月10日放送 世界一の鉄道レール!始まりの地へ

モノづくり大国ニッポンを支えた3つの礎

「明治日本の産業革命遺産」は、炭鉱や製鉄所など8つの県にまたがる文化遺産だ。江戸末期から明治にかけての激動の時代に生まれ、その後の日本の産業発展の礎となった。それは単なる西洋技術の導入ではなく、日本独自のスパイスが加わった施設だった。何と100年以上経った今も現役で稼働している機械があるというところが、いかにも日本らしい。番組では、2015年になって登録されたこの遺産を、2週にわたって深く紹介する。

近代日本を動かしたエネルギー

明治の産業革命を実現したエネルギーは、石炭が支えてきた。番組では、海底炭鉱を持つ長崎の端島─通称「軍艦島」と、熊本の三池炭鉱万田坑を取材。かつてそこで実際に暮らしていた人々と共に、廃墟としてではなく、生活の舞台としての軍艦島を振り返った。

──今回は2週にわたっての明治日本の産業革命遺産ですね。さまざまな場所での取材になったと思いますが、今回は石炭、製鉄、造船という大きなテーマに分けて話をおうかがいします。まずは、産業のエネルギーとなった「石炭」についてです。

匂坂ディレクター(以下、匂坂):長崎の軍艦島と、熊本の三池炭鉱を取材しました。軍艦島には、里帰りをする元島民の方といっしょに訪れました。廃墟としてのたたずまいばかりが取りざたされる軍艦島ですが、元島民の方の目を通して、石炭を掘っていた頃の軍艦島にも注目しました。

かつて炭鉱の街として賑わっていた軍艦島こと長崎の端島。日本の急速な近代化のエネルギーを生み出してきた島です。

──軍艦島は元々どのような場所なのでしょうか?

匂坂:地下に良質な石炭が見つかったことで、元々は小さな岩礁が海上都市になった場所です。住人が増えて人口過密な時期もあったほどでした。またその坑道は想像以上に深く広範囲に広がり、深さは1000m以上、広さは2km四方にも及びました。炭坑労働者は竪坑と呼ばれる昇降用の穴を使い、地下600mもの深さまで下りるケージに乗って現場に向かいました。

総合事務所と第二竪坑入坑桟橋。一般の観光ルートからも見学することができます。

──今は観光地としても有名ですが、島の現状を教えてください。

匂坂:雨ざらしで今も風化が進んでおり、建物の中に立ち入ることはできません。一般の観光ルートでは炭鉱の事務所などが並ぶ限られた場所しか見られませんが、今回は特別に、病院や小中学校などの島民の生活があった場所を取材させてもらいました。島を巡りながら元島民の方の話を聞いていると、当時の炭坑労働者たちには、「日本を動かすエネルギーを生み出している」という誇りがあったことが伝わってきました。軍艦島については10月4日の放送で紹介します。

番組では、普段は非公開となっている学校や病院があった場所を特別に撮影させてもらいました。

──続いて三池炭鉱の万田坑ですね。ここはどういった場所ですか?

匂坂:三池炭鉱の坑道への入口(坑口)のひとつで、1902年から稼働していました。三池炭鉱の特徴は、まず、当時最先端の外国の大型機械などが導入されていたこと。そして、石炭を産出する各坑口と積み出し港である三池港が炭鉱鉄道で結ばれていて、石炭を運び出すための一大システムが構築されていたことです。

──万田坑を取材して、どのような印象を持たれましたか?

匂坂:100年以上前の巻上機などの大型機械が今にも動き出しそうな状態で保存されていて、当時の活況が想像できました。また同時に、産業革命のエネルギーを生み出していた炭鉱が、とても厳しい労働に支えられていたということも印象に残りました。万田坑にも、かつてこの炭坑で働いていた方といっしょに訪れました。

三池炭鉱の万田坑のシンボルとなっている第二竪坑櫓。労働者はここから地下深く潜りました。石炭はトロッコで運ばれました。

──当時はどのような現場だったのでしょうか?

匂坂:彼と共に、かつての坑道の入口だった竪坑口を訪れました。一般公開されていない場所です。坑道内は水が湧きやすく、いつ崩れるか分からない危険な地盤と戦いながらの作業だったそうです。この話は10月11日の放送をご覧ください。

万田坑の施設内には、巨大な巻揚機などの当時の機械がそのままの姿で残されています。