ジャコメッティ展

ジャコメッティの歩んだ軌跡 作品紹介

ジャコメッティの歩んだ軌跡

スタンパでの初期作品

ジャコメッティは、画家の父の影響もあってか、10代の初め頃から、静物や家族をモデルに油絵や彫刻を試みるようになります。また、過去の巨匠たちによる作品の版画に基づく模写も行い、その中には日本の浮世絵も含まれていました。

同時代の芸術と西洋の外へのまなざし

1922年、20歳でパリに出たジャコメッティは、当時新しい芸術として認められつつあったキュビスムをはじめ、アンリ・ローランスやコンスタンティン・ブランクーシといった同時代の芸術家、さらにルーヴル美術館で目にした古代エジプトやエトルリア美術、民俗学博物館で出会ったアフリカやオセアニア彫刻の造形からも影響を受けました。

シュルレアリスムへの参加

1930年、ジャコメッティの作品を見たサルバドール・ダリとアンドレ・ブルトンにシュルレアリスム運動に誘われ、シュルレアリスム展にも参加。この時期、檻の中や舞台の上に複数のオブジェを組み合わせた彫刻作品を制作しています。しかし、1933年の父の死後、頭部を作り始めるようになり、翌年にはシュルレアリスムと決別しました。

小さな像

シュルレアリスムから離れた翌1935年、ジャコメッティはモデルに基づく彫刻を試みるようになります。やがて空間と人体の関係を探り始めると、胸像や人物像は収縮し、台座が大きくなっていきました。さらに、第2次世界大戦によってジュネーヴに留まることを余儀なくされたあいだ、記憶による制作を試み、彫像はマッチ棒ほどのサイズにまで小さくなります。

細長い彫刻へ

戦後、ジャコメッティの彫刻は高さを取り戻しますが、現実に近づこうとすると、今度は細長くなっていきます。ジャコメッティの代名詞ともいえる細長い彫刻は、女性立像、歩く男、指差す男、倒れる男、そしてひとつの台座に複数の人物を配した群像といったさまざまなヴァリエーションとして展開されました。

モデルを前にした闘い

モデルの顔を「見える通りに」捉えるという、決定的な重要性をもつと同時に、到達不可能な探究に身を投じたジャコメッティ。消しては描き、描いては消すという、終わることのない闘いのパートナーとして、最も忍耐強く、献身的にモデルを務めたのが、弟ディエゴと妻アネット、そして矢内原伊作でした。

《大きな頭部》を制作するアルベルト
Photograph by Ernst Scheidegger © 2017 Foundation Ernst Scheidegger Archiv, Zurich

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