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〜10人の脚本家と10組の名優が贈る、10の物語〜

2014年7月13日スタート日曜よる9時

あなたの“おやじの背中”

人にはそれぞれの「おやじの背中」がある―――。
あなたとお父さん(またはお父さんのような存在の方など)との思い出に残るエピソードをお送りください。
たくさんの書き込みをお待ちしています。

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私は、幼い頃、父母が離婚していて、あまり父との思い出がありません。母も祖父母も、父の話をせず、私たち兄妹を育ててくれました。
でも、最近、父と同年代の方をみると、父に会いたいと感じるようになりました。
父に会えるよう、父の居場所を探してみたいと思います。

ネコ (26) 女性 2014.7.30 (水) 22:12:53

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中3の時に父を事故で亡くしました。
自分がまだ子供だったので、49歳という年齢を若いとは思ったことがなかったのですが、いざその年齢になってみた時に、なんて早く亡くなったんだろうと。
父は器用な人で、いつも何かを作ったり壊したりしている人でした。でも、とても厳しくてどんなにお願いしても夏休みの工作に手を貸してはくれませんでした。
そんな父の子ですから私も、いつの間にか父と同じことを我が子たちにしていましたね(笑)
父の亡くなった時の年齢をはるかに超えた今も、いつまでも私は父を手本にして生きていくことでしょう。

ももこ (55) 女性 2014.7.28 (月) 14:58:30

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私は今から数十年前に父親を亡くしました。
当時親父は自営で花屋をやっており、私はサラリーマンをやっていました。
ある歳の1月4日に久しぶりに親父の顔が見たくて一人で実家をたずねたときに、珍しく親父の愚痴を聞きました。
明日、1月5日には銀行が開き、3000万円の手形が落とせない。とのこと。
しかもその3000万円はほとんどが自分が連帯保証人。
闘おうといない親父に腹がたたって「死んで際前」ただし、すべてのしがらみをたってからにしてくれ!といってしまいました。腹立ち紛れにその日は自宅に帰ったのですが、翌1月5日会社で御用始めをしていたときに母から電話が入り「お父さんがやっちゃった」とのTEL
債務3000万円 そのほとんどが自分の連帯保証。
6年で返済しました。
でも、いまだにそんな親父がだいすきです。
貧乏な中大学まで生かせてくれた親父が今でもだいすきです。

卓ボン「」 () 男性 2014.7.28 (月) 10:37:51

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父は暴君でした。母を殴り仕事もせず貧しく愛情の欠片もない家庭で育った、と思っていました。
実家が嫌いで若くして嫁ぐと決めた時、父は夫となる人に『(体の)弱い奴だから』と大切にして欲しいとこっそり頼んでいました。
高齢での出産後は孫の事以上に私の体調ばかり訊ねています。
本当に不器用過ぎてお父さんの愛情に気付くのにこんなに時間が掛かりましたよ。
私が小学生の頃の写真をいまだに手帳に挟んでるの知ってますよ。
これからも苦労させられるでしょうけど、こんなに大切に想われてたら放っておけないでしょう?
でもね、まだまだ育児で忙しいんですから、もう少し元気でいてくれないと困ります。
お願いしますよ!

表浜 (41) 女性 2014.7.27 (日) 22:07:31

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「当院はしばらく休院します。」この一言を残して父は永遠に戻ることのない旅に出ました。余命半年の宣告 秋口に入院した父は 「来年の桜は見られないなぁ。」と一言。
町医者だった父を いつもたくさんの患者さんが頼ってきていました。今振り返ると父は体の病だけでなく 心の手当てもしていたように思います。子どもだった私が何かわからないことを聞くと どんなこともはぐらかすことをせず正面から教えてくれました。
もう20年以上も前のことになりましたが、父は今も隣にいてずっと見守ってくれているように感じています。

梔子の花 () 女性 2014.7.27 (日) 17:30:28

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息子は、父親よりも母親に対する思いのほうが強い。自分も、いい思い出の中には、母の姿はいつもあるのに、父の姿はないか、もしくはあっても登場人物のひとりである。父の思い出なんて、偏屈で融通がきかない、という嫌なものばかり。 自分は未熟児で生まれ、足に障害が残ってしまった。ほっといたら家に閉じこもってしまうからと両親は考えて、休みの度に自分を外へ連れ出してくれた。父が運転免許を取ったのはそのためだった事を、物心ついてから聞いた。長い距離が歩けないからと、小学生になっても自分を背負ってくれたのも、父だった。楽しい思い出も父の運転がなければ作れないものだった。今、父の年齢を追いかけて年を取っている。その頃の自分と同じ子供がいたら、同じ事をしてやれたか?と問われれば自信がない。優しい言葉は今も父からはもらえない。でも人より長く背負われた、父の背中はずっと覚えていると思う。

かずき@社福専攻86 (47) 男性 2014.7.26 (土) 21:12:21

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私は父を17年前に亡くしましたが、生前の父の想いでは、そのほとんどが父の失敗事です。
しかし、父はそのたびに悪びれることも、言いつくろうこともせず、いつも笑い飛ばしていました。
ある時、父と銭湯へ行ったとき、父が隣で「ハアハア」言って背中を洗っているのに気付き、良く見てみるとバスタオルで体を洗っていました。
「どうしたの?」と聞くと、「バスタオルを2枚持ってきてしまった。それにしても、これは重いもんだな」

そんな父が今でも懐かしく思えます。

卓ボン (58) 男性 2014.7.21 (月) 03:24:04

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僕のおやじは、10年前に、脳梗塞で、亡くなりました。僕のおやじは、建築現場の、職人で、一刻でした。居酒屋とかで、飲むと、けんかお、してきて、兄と僕の二人お、呼ぶので、嫌でした。だから、兄と、僕は、お酒は、飲まないのかと。

万年筆ペン (45) 男性 2014.7.20 (日) 22:23:34

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仕事から帰ってきた父は、母や祖母が作った晩ご飯とは別に酒のつまみにと、何かしら料理をしていました。ある晩は買ってきた刺身を、ある晩は軟骨と野菜を炒めたものを、またある晩は砂肝の刺身と炒め物を、またある晩は…。私は居間から料理する父の姿を見て、父のつまみができるのを待っていました。父とテレビを見ながら、できたつまみを横からつまんで食べていました。こうして話してたら、今度帰ったときは何か作ってあげようと思いました。

田舎っこ (21) 女性 2014.7.20 (日) 21:48:44

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「お父さんおなかすいたー」
「えー、そうかい?じゃあ炒飯でいい?」
「うん」
日曜日のお昼。母が洗濯物をたたんでいる間、
父が私たちのお昼を拵えてくれるのが好きでした。
父が作る炒飯にはナルトとソーセージの
細かく切ったのが入っていて、
我が家の味になっていました。

天ぷらを揚げるのも、お好み焼きを焼いてくれるのも父でした。

台所に立って「おーい、できたからおいでー」
「ほんとー?!」
あつあつの炒飯にわかめの味噌汁。
そしてトマトの輪切りに塩が振られて、
「おいしそう!いたたきまーす♪」

子どものころの父の背中はいつもそうして
週末になるとおいしいごはんを拵えてくれる大きな背中でした。

私が料理を好きになったのも、両親の
特に父の炒飯のおかげなような気がします。

瑠夏 (47) 女性 2014.7.20 (日) 14:31:37

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