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過去の放送 出演者 時事放談「サロン」 テレビプロデューサーの日々
 
 

「敵の弾で死ぬのではなく…」古賀誠氏(8月3日放送)

古賀: 加藤先生からある意味では唐突にですね、ミャンマーに行こうとお声をかけて頂きました。『まだあなたも遺族会も行ったことのないインパール作戦の行軍があったね。あれはまさに戦争の最大の悲劇だ。あの行軍は敵の弾で倒れた人はいない。厳しさの中でね、皆が歩けなくなって栄養失調になって、病気に侵されてバタバタ倒れて、その人達を弔うことも出来ない。残された人は、俺に構わずに行ってくれと、手榴弾で自爆する。まさに白骨街道と言われているんです。そこに行きたいんです』と…非常に困難な行程でしたけど、行ってきました。

そして、慰霊祭が始まった。空き地に据えられたテーブルの祭壇は両端に花が、その真ん中に日本酒3本とミネラルウォーター2本が供えられ、小さな蝋燭が2本灯っていた。まず古賀氏が姿を見せ、お線香と数珠を手にじっと手をあわせた。そして、しばらくしてから前に進み、地面にそのお線香を置いた。

そこに車椅子に乗った加藤氏が現れる。古賀さんは「じゃあ、お酒やってもらおうかあ」と、祭壇にあった4合瓶の1つを手にして渡すと、加藤氏は車椅子から両脇を抱えられて立ち上がった。古賀氏が「水を使わせてもらっていい?」と聞くと「水が一番だよ」「みんな水が欲しかったと思いますよ」などと応える。加藤氏は脇を支えてもらいながら、祭壇とあたりに日本酒を注いだ。そして、前に進み出て線香を下に置き、よろけながらも立ち上がり眉間にしわを寄せて正面をじっと見つめた。そして目を閉じ、じっと手を合わせた。しばらくするとまた、両脇を抱えられながら祭壇の椅子に崩れるように座った。加藤氏は何やら思案気に、無言で回りの様子を見つめた。そして案内役に、挨拶を促され、初めて加藤氏が口を開いた。

「今、こう見てると、古賀さんが水を一生懸命まいているんですね。僕は地元の日本酒を持ってきた。やっぱりこの天候で、この国の暑さですから、水を飲みたいと言って傷ついて亡くなった人や病死した人が多かったのではないかと思います。水。冷たい水。本当に苦労した戦死者たちが一番欲しがったのは、最後に飲みたかったのは、それじゃないかなと。古賀さんは遺族会の会長として、そこはよくわかっているのではないかなと、私は思って見ていました」

ひどく暑いのだろう、後ろで現地の人が後ろから日傘のようなものをかざし始めた。加藤氏はひたいに汗つぶをだし眉間にしわを寄せながらも、声を絞り出し続ける。

「インパール戦線というと歴史の中で有名になっているけれど、なんであんな険しい、ヘリで行こうとしても無理だなというようなとこに行って10万人近い日本の兵士が犠牲にならなきゃなんないのかを考えると、いろんなことを我々は学ぶべきじゃないかと思います。日本・ミャンマー戦線における犠牲はなんなのか、よく考えてみなきゃいけないと思います。今日ここまで、ヤンゴンからジェットでパガンまで2時間弱。そこからヘリで約2時間近くでしたね。それで、ここからインパールぎりぎりまで行こうとすると、車でも2時間半かかる。よくこんなとこまで戦争に来たなあと思いますね。」そして声を張り上げた。

「戦争やっちゃだめです。バカみたいなことやったなあと思いますね。戦いに来た人は勇壮な戦士なんですよ。でも本当に戦いで亡くなった方は少なかったんじゃないだろうか。ようく大東亜戦争のことを学ばなきゃいけないなとつくづく改めて思います」。

加藤氏は必死の形相だった。話し終わるとしばらく黙った。遠くを見つめ、「やっぱり今、山頂見えない。あそこで雨、降っているんですよね」と聞くと、案内は「雨です」と。そして「あそこからあの山をはいずりあがってインドまで行こうとしたわけだから」とつぶやいた。そしてビデオは終わった。

すっかり、夜は更けていた。そして、秘書が、この後、加藤氏は体調を壊し、そのまましばらくミャンマーに残り、現在は東京の病院に入っていると言っていたことを思い起こした。接触は家族だけに限られているという。収録後スタジオで脇を抱え上げたときの加藤さんの脇が汗でびっしょりとなっていたのを思い出した。汗の手ざわりの残る掌を眺めながら「必死で話していたんだな」と思った。そして、こうなることも加藤氏はわかっていたのかなと思えてきて、深夜に一人落涙した。


※本原稿は調査情報9〜10月号に掲載されています。

石塚 博久 (いしづか ひろひさ)
'62 東京都足立区生まれ。早稲田大学卒業後、'86日本経済新聞社に入社。大阪、名古屋、仙台支局(このとき、「みちのく温泉なんとか殺人事件」に出るような温泉はほとんど行った“温泉研究家”でもある)に。
東京本社政治部で政治取材の厳しい(「虎の穴」のような)指導を受け、新聞協会賞(「閣僚企画」共著)も。
'96TBS入社後は、報道局政治部記者、「NEWS23」のディレクターを経て、「時事放談」制作プロデューサー。

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