報道の魂
ホウタマ日記
2012年01月14日 「古都のベールに挑む」編集後記 (岩城浩幸)
陶器製手榴弾や地雷を取材するようになったきっかけは、今、考えれば、沖縄で島田叡の取材をした時です。島田叡の軌跡は、「報道の魂」で2回にわたって放送しました。

#30『「生きろ…」と知事は言った 〜島守たちの沖縄戦〜』

#36『あした天気にしておくれ 〜沖縄戦…知事が目指した道』

当時、沖縄本島最南端の摩文仁を取材したのは、島田が姿を消した沖縄戦最後の激戦地だったからです。摩文仁の沖縄県平和祈念資料館で関連資料の取材をした時に、そこで陶器製手榴弾の実物を見ました。しかし、その存在は、この時点ではメインのテーマではなく、番組で紹介することもありませんでした。

すっかり忘れていた陶器製手榴弾を再び見たのが、立命館大学の平和記念ミュージアムでした。
http://www.ritsumei.ac.jp/mng/er/wp-museum/

なぜ、ここに?京都と沖縄、京都は島田叡が学生時代をすごした場所…。そうした疑問以上に、実は陶器製の手榴弾や地雷が、いわゆる代用品ではなく、大戦末期に実践用として数多く作られていたことを知りました。そして発掘されたうちの多数が、ここに収蔵されていること、考古学の木立雅朗教授が、その研究の第一人者であることを知りました。取材していく中で、戦災を免れた街と戦場が一本の線でつながっていきました。

取材の中で最も驚いたことは、京都の場合、陶器製手榴弾が作られた場所が清水焼の産地である五条坂、つまり京都の街中であり、山の中で人知れず作られたのではないということでした。この周辺には、清水寺、大谷本廟、六波羅蜜寺といった名刹、観光スポットが数多くあり、多くの観光客が訪れる場所です。そこには、多くを語られずに来た、京都の知られざる一面があったわけです。

「京都の歴史は、ある意味で戦争の歴史です」という木立教授の言葉に、応仁の乱以来の幾多の戦いが思い浮かびます。しかし、その最後にあの大戦が思い浮かばないのは、やはり京都が戦争と無縁の平和都市というイメージで見ていたからではなかったのか、そう自問することになりました。

木立教授は、近現代を発掘するだけでなく、残すことにも力を注いでいます。たとえば使われなくなって久しい五条坂の登り窯。あるいは、近代の面影を残す五条坂の空間を、そのまま博物館化できないか。それは木立教授の夢であるだけでなく、京都の歴史から近代の一部だけが抜け落ちていくのではないかという危機感によるものでもあります。

また、今回取材した京焼や京友禅のほか、考古学の大きなテーマである銅鏡の技術などは、いずれも今に伝わる伝統工芸です。しかし、それらはいずれも厳しい位置におかれています。伝統工芸との共存と口で言うのはたやすいが、現実の問題としてはどうすればよいのか。これも木立教授の大きなテーマです。知られざる古都の一面を、いましばらく取材し続けようと思います。

(TBS報道局主席解説委員 岩城浩幸)
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