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新人戦自体は他県でも行われることだが、沖縄のこの大会だけは、ある人物の名前を冠した優勝杯の争奪戦でもある。その名は島田杯。沖縄戦直前に赴任した知事、島田叡。敗戦によって沖縄県が琉球政府となったため、「最後の沖縄県知事」とも呼ばれた人物の名前だ。 開幕試合を見つめるバックネット裏に、2人の人物の姿があった。1964年、初めてその優勝杯を手にした、当時のコザ高校の選手と監督である。コザ高校は、「沖縄県立」ではなく「琉球政府立」の時代だった。「モノのない時代に、名実ともに重いカップだった。沖縄の高校野球が今日あるのは、島田杯、島田さんのおかげ」と2人は言い切る。 彼らだけでなく、沖縄県の高校野球関係者の多くが、甲子園に行くたびに訪れる場所がある。兵庫県立兵庫高校、戦前の神戸第二中学だ。島田叡は神戸二中をはじめに、旧制三高、東京帝大と、俊足の外野手として活躍した。 1945年に知事として赴任した沖縄で、県民とともに生き、死んでいった。求められれば、「てるてる坊主てる坊主、あした天気にしておくれ」と、いつまでも歌いながら踊り続けたという。梅雨の雨と弾雨の下で。 ![]() この夏、島田の原点である神戸と、終焉の地となった沖縄県摩文仁の丘に、同じ文字を刻んだ碑が建てられた。 『断而敢行鬼神避之』。 島田叡生前の座右の銘である。そして、「島田杯を野球だけでなく他の競技にも」という声があがる。 63年を経ていまなお熱く語られる島田叡。沖縄と兵庫、沖縄と本土をつなぐ架け橋として、その名は未だに生き続けている。 今年新たな記念碑が建てられた摩文仁の丘には、島田の「終焉の地」の碑がある。そこで、米軍の攻撃で散った、あるいは、自決したとも伝えられるが、島田の消息は定かでないし、遺体も確認されていない。 ![]() 沖縄戦が事実上終わった6月23日。 碑の建つ丘の中腹は、切れ込んだ崖になっている。その下に、島田が最後の時間を過ごした壕があったという。その場所に降りてみた。そして、「終焉の地」や周辺をあらためて検証した。 県民に「生きろ・・・」と言った知事(報道の魂#30)。学生時代に野球選手として、常に本塁への生還を目指した人物。その人が、「軍人のやりかたである自決などするはずがない」。そうした声に衝き動かされて取材を続けるうちに、新たな証言に行き当たった。島田知事の人間像を髣髴とさせるその証言は、これまでの定説を覆し、島田知事の「最後の日々」に、一筋の新たな光をあてることになった。(敬称略) ![]()
企画・取材:岩城浩幸(TBS報道局)
取材・構成:原義和(沖縄在住ジャーナリスト) 取材・構成:秋山浩之(TBS報道局) 撮影:高木しろう VE:椎野百合子 編集:林順一 協力:RBC琉球放送 |
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