土曜 午後5時~
MENU
BACK NUMBER #478 2015.7.4 O.A.
バックナンバー
栄光と挫折…元スター選手 もう1つの戦い
プロ野球選手の選手寿命は、平均8.5年。多くの選手が第2の人生に不安を抱えている。かつて、球界を代表する大エースだった男も、栄光から一転、戦力外通告を受け、生きていくための厳しい現実に直面した。かつて世界一に輝いた、WBC戦士は今…。過去の栄光をかなぐり捨て、全く別の道で勝負すると決めた。辿り着いたその先に待ち受けていたものとは?2人の元スター選手のもう1つの戦いに密着した。
<野口茂樹>
1992年、高校卒ルーキーとしてドラフト3位で中日に入団した野口は、キレのあるスライダーを武器に3年目から活躍。数々のタイトルを獲得し、球界を代表するサウスポーとして、最高年俸、1億4000万円(推定)に達した。しかし、2005年巨人に移籍してからは、思うような結果が残せなくなり、3年間でわずか1勝。そして2008年、34歳で戦力外通告。それでも野口は野球を諦めきれず、その5か月後、不調の原因であった左ヒジの手術に踏み切った。ヒジさえ治ればまだやれる。“現役復帰”野口の頭には、それしかなかった。しかし、その道のりは、険しかった。ピッチングはおろか、キャッチボールすらままならない。想像以上に辛いリハビリの日々が1年以上も続いた。そんな野口を支えたのは、8歳年下の妻、直美さん。2人が出会ったのは、野口が巨人から戦力外通告を受ける1年前。直美さんは、野口がスター選手だったことを全く知らず、苦しむ姿しか見ていなかった。しかし、現役復帰を目指す野口のひたむきさに、直美さんは次第に惹かれ、ヒジの手術から2か月後、2005年9月に結婚。先の見えないリハビリ生活を、妻としてすぐ側で支える生活が始まった。少しでも生活費を稼ごうと、野口は、リハビリの合間に、妻の父が経営する焼き鳥屋でアルバイトを続けた。「絶対にプロ野球選手に戻る」そんな思いが野口の心にみなぎっていた。そして、2011年12月、戦力外通告を受けてから3年後、野口は、12球団合同トライアウトを受けた。しかし、どこからもオファーが届くことはなく37歳で引退を決めた。あれから4年。野口は今、中日時代に過ごした名古屋で、営業を担当するサラリーマンとして働いている。知人の紹介で昨年(2014年)正社員として採用された。会社は、スポーツ施設の設計、施工で、業界屈指の実績を誇る創業100年を越える老舗企業。入社して1年半、徐々に仕事を任されるようになった。今では商談も1人で行う。この日野口が訪れたのは、新規開拓を担当する町工場。体育施設用の照明機材をこの工場に取り入れてもらうべく、売り込んでいるところだ。現役にこだわった長いトンネルを抜け、辿り着いた第2の人生に、夫婦は今、新たな充実感を感じている。
<藤田宗一>
1997年、25歳で社会人ドラフト3位で千葉ロッテに入団。1年目から中継ぎの柱としてチームを支え、2005年には、阪神との日本シリーズを制し、31年ぶりの日本一に大きく貢献した。最高年俸1億3000万円(推定)。さらに、2006年の第1回WBCでも中継ぎとして世界の強打者を抑え、王ジャパンで世界一に輝いた。しかしその翌年、左肩の痛みに苦しみ、思うような成績を残せなくなった。そして、プロ10年目、35歳で戦力外通告。その後、巨人、ソフトバンクと渡り歩いたが、本来のピッチングは戻らず、2012年には独立リーグに入団。その直後、ふくらはぎを故障し、39歳で現役引退を余儀なくされた。引退から3年、藤田は今、東京・赤坂で働いている。その仕事とは、豚肉がメインの焼肉店。藤田自らがオーナーとして営んでいる。店のメニューは全て藤田が自ら作る。その手つきは、料理人そのものだ。この技術はプロ野球を諦めた39歳の時から、必死に身につけたという。もともと飲食店に興味があった藤田は、まずは精肉店で勉強をスタート。それがきっかけで、焼肉店を開くと決めたが、その道は険しいものだった。切り方1つで味が変わる。藤田は、1日に100kg以上もの肉をさばき、切り方を体で覚えた。更に修行の傍ら、焼肉店の食べ歩きもした。惚れ込んだ店には何度も通いつめ、その店独自の肉の切り方を頭を下げて教えてもらった。そして2013年4月、藤田は自らの店をオープン。修行で身につけた包丁裁きは、肉の旨みを出す、まさに職人技。店の看板メニュー、厚切りタンは、包丁の刃を複雑に入れていく。こうすることで、肉の厚さを残したまま、タレと絡みやすくなり、噛むほどに味が増す、絶品の味わいが楽しめるという。現役のプロ野球選手たちも、藤田の味を求め、店を訪れる。
開店前の午前中、藤田は自宅で毎日トレーニングを続けている。実は、彼にはもう1つの夢がある。いつかコーチとしてプロ野球の現場に戻りたい。その時、自ら体を動かして指導できる様、鍛えているという。
どんなに華々しい活躍を見せたプロ野球選手も、引退すれば1人の人間として生き方を問われる。ひたむきに第2の人生と向き合う2人の男に、心からエールを送りたい。
<野口茂樹>
1992年、高校卒ルーキーとしてドラフト3位で中日に入団した野口は、キレのあるスライダーを武器に3年目から活躍。数々のタイトルを獲得し、球界を代表するサウスポーとして、最高年俸、1億4000万円(推定)に達した。しかし、2005年巨人に移籍してからは、思うような結果が残せなくなり、3年間でわずか1勝。そして2008年、34歳で戦力外通告。それでも野口は野球を諦めきれず、その5か月後、不調の原因であった左ヒジの手術に踏み切った。ヒジさえ治ればまだやれる。“現役復帰”野口の頭には、それしかなかった。しかし、その道のりは、険しかった。ピッチングはおろか、キャッチボールすらままならない。想像以上に辛いリハビリの日々が1年以上も続いた。そんな野口を支えたのは、8歳年下の妻、直美さん。2人が出会ったのは、野口が巨人から戦力外通告を受ける1年前。直美さんは、野口がスター選手だったことを全く知らず、苦しむ姿しか見ていなかった。しかし、現役復帰を目指す野口のひたむきさに、直美さんは次第に惹かれ、ヒジの手術から2か月後、2005年9月に結婚。先の見えないリハビリ生活を、妻としてすぐ側で支える生活が始まった。少しでも生活費を稼ごうと、野口は、リハビリの合間に、妻の父が経営する焼き鳥屋でアルバイトを続けた。「絶対にプロ野球選手に戻る」そんな思いが野口の心にみなぎっていた。そして、2011年12月、戦力外通告を受けてから3年後、野口は、12球団合同トライアウトを受けた。しかし、どこからもオファーが届くことはなく37歳で引退を決めた。あれから4年。野口は今、中日時代に過ごした名古屋で、営業を担当するサラリーマンとして働いている。知人の紹介で昨年(2014年)正社員として採用された。会社は、スポーツ施設の設計、施工で、業界屈指の実績を誇る創業100年を越える老舗企業。入社して1年半、徐々に仕事を任されるようになった。今では商談も1人で行う。この日野口が訪れたのは、新規開拓を担当する町工場。体育施設用の照明機材をこの工場に取り入れてもらうべく、売り込んでいるところだ。現役にこだわった長いトンネルを抜け、辿り着いた第2の人生に、夫婦は今、新たな充実感を感じている。
<藤田宗一>
1997年、25歳で社会人ドラフト3位で千葉ロッテに入団。1年目から中継ぎの柱としてチームを支え、2005年には、阪神との日本シリーズを制し、31年ぶりの日本一に大きく貢献した。最高年俸1億3000万円(推定)。さらに、2006年の第1回WBCでも中継ぎとして世界の強打者を抑え、王ジャパンで世界一に輝いた。しかしその翌年、左肩の痛みに苦しみ、思うような成績を残せなくなった。そして、プロ10年目、35歳で戦力外通告。その後、巨人、ソフトバンクと渡り歩いたが、本来のピッチングは戻らず、2012年には独立リーグに入団。その直後、ふくらはぎを故障し、39歳で現役引退を余儀なくされた。引退から3年、藤田は今、東京・赤坂で働いている。その仕事とは、豚肉がメインの焼肉店。藤田自らがオーナーとして営んでいる。店のメニューは全て藤田が自ら作る。その手つきは、料理人そのものだ。この技術はプロ野球を諦めた39歳の時から、必死に身につけたという。もともと飲食店に興味があった藤田は、まずは精肉店で勉強をスタート。それがきっかけで、焼肉店を開くと決めたが、その道は険しいものだった。切り方1つで味が変わる。藤田は、1日に100kg以上もの肉をさばき、切り方を体で覚えた。更に修行の傍ら、焼肉店の食べ歩きもした。惚れ込んだ店には何度も通いつめ、その店独自の肉の切り方を頭を下げて教えてもらった。そして2013年4月、藤田は自らの店をオープン。修行で身につけた包丁裁きは、肉の旨みを出す、まさに職人技。店の看板メニュー、厚切りタンは、包丁の刃を複雑に入れていく。こうすることで、肉の厚さを残したまま、タレと絡みやすくなり、噛むほどに味が増す、絶品の味わいが楽しめるという。現役のプロ野球選手たちも、藤田の味を求め、店を訪れる。
開店前の午前中、藤田は自宅で毎日トレーニングを続けている。実は、彼にはもう1つの夢がある。いつかコーチとしてプロ野球の現場に戻りたい。その時、自ら体を動かして指導できる様、鍛えているという。
どんなに華々しい活躍を見せたプロ野球選手も、引退すれば1人の人間として生き方を問われる。ひたむきに第2の人生と向き合う2人の男に、心からエールを送りたい。