●野中氏「銭勘定だけでは…」
せっかくだから、どっかの後輩の記者でも見つけて説教でもしていこうなどと思いついて4階の記者クラブに下りてみた。エレベーターホールでは北海道の衆議院選挙の新しい候補者(公認されなかった杉村太蔵候補と戦うことになる)が記者に囲まれてカメラの前でニコニコしながらインタビューされていたりした。左手が総裁室やら幹事長室で右手が記者クラブで会見場(国会閉会中に幹事長が会見したり、総選挙の後で総裁が会見したりするのはここ)やらテレビ、新聞各社の机が並ぶ。南に面して位置的にはちょうど食堂の真下ではあるのだが、汚さと少しの臭さは天と地の違いだ。ここにくれば、懐かしさはカレーの比ではない。とりわけ、92年から93年の頃、担当だった私はここを走り回り、そしてキャップに怒られた。朝回りの取材を終えても二日酔いは収まらず、ここのソファーで寝るとすでに隣でキャップが昼寝したりしていた。で、あの頃もそうだった。社会の怒りを受け止めきれず、結局、政界再編へと雪崩込んだ。
知り合いは見つからず、隣の机の上にはさっきのニュースの元になったものなのだろう資料の束が転がっていた。「高齢者の『安心・活力』を強化するための取り組み・・・」などと何十項目にも渡る箇条書きはいかにも役人が題目を「らしく」したものばかりだった。「75歳の線引き」に真正面から取り組んだ下りは一言もなかった。今度は腹が立つと言うより悲しくなってきた。「こうじゃないんだ。」と記者クラブを思った。「福田も小沢もご機嫌な場合じゃないだろ」と思った。説教する気も無くなってエレベーターホールへと向かった。まだ、インタビューは続いていた。若い候補者はまだニコニコしていた。
※本原稿は新・調査情報7〜8月号に掲載されています。
◆石塚 博久 (いしづか ひろひさ)
'62 東京都足立区生まれ。早稲田大学卒業後、'86日本経済新聞社に入社。大阪、名古屋、仙台支局(このとき、「みちのく温泉なんとか殺人事件」に出るような温泉はほとんど行った“温泉研究家”でもある)に。
東京本社政治部で政治取材の厳しい(「虎の穴」のような)指導を受け、新聞協会賞(「閣僚企画」共著)も。
'96TBS入社後は、報道局政治部記者、「NEWS23」のディレクターを経て、「時事放談」制作プロデューサー。

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野中:あ〜私もね、届いたんですよ、これが届いた時に「あっ!」と思ってね。戦争のあの苦しかった時代に一生懸命働き、かつ、その後、戦後の中の混乱の中を復旧してきた人たちを人間として感謝し、扱い。そういう気持ちが政治に一番必要なところが欠けてるんです。やっぱり政府の主軸を握ってる、我が自由民主党が一番責任を感じなくてはならないことじゃないかなと。政治家が考えて、政治家として与野党通じて人間としての扱いを考えなきゃいけないですよ。